雪燐 書庫

□雪燐02 あたたかい香り
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今日も今日とて疲れた…。
祓魔師としての仕事と、塾講師としての仕事。
両立するのは難しくはないが、さすがに大きな任務の後に塾講師をするとなると体力がもたない。

今日は特にそうで、銃と書類による腕への疲労を中心に体中疲弊していた。

「ただいま…」
ゆっくりと力なく部屋のドアを開ける。
すると、すぐ返ってくる聞き慣れた声。
「おかえり!」
…いつも、ドアを開ける前までの疲労感なんてものは、この声を聞いただけでどこかへ飛んでいってしまう。

靴を脱ぎ、コートを掛ける。
「メシ、出来てるけど…どうする?先に風呂入ってくる?」
ネクタイを緩める。

「兄さんはもう食べたの?」
「いや、まだ」

兄さんはいつも、僕が帰ってくるまで夕飯を食べない。

鞄を置こうと机に歩み寄りながら、
「僕が遅くなる時は先に食べて良いって言ってるのに…塾で言っただろ、今日は少し遅くなるって」

ベッドの上でクロとじゃれている兄は、何食わぬ顔で、
「一人でメシ食っても美味くないだろ、なぁクロ」
「ニャー」
「…」
弟を思っての兄の優しさなのか、ただ単に自分が一人で食べるのが嫌なのかわからないが、
それが嬉しくないわけではないので特に釘をさすことはしない。
「兄さん…お風呂は入ってきたの?」
「んあ?あー、まだだな」
クロに髪を引っ張られながら応える。
「じゃあ、今入ってきなよ。先に終わらせておきたい書類があるんだ」
「ゲッ、まだ仕事あるのかよ…」心底嫌そうな顔をする兄。
「祓魔師兼、塾講師だからね。やる事がたくさんあるんだよ」
「はいはい、そうかよ…」
若干呆れたような声色で呟きながら、クロを背中にくっつけてベッドを離れていく。
棚からタオル類と着替えを取り出すと、
「じゃー先入ってくっから終わらせとけよ。俺帰ってきたらすぐメシだぞ」
「はいはい」
背中を向けたまま応えると、後ろでドアの閉まる音がした。


…それから何十分たっただろう。
「、…よし、終わった…」
書類を全て片付けおわる。
と、いきなり睡魔に襲われた。

今にも瞼が閉じてしまいそうな眠気に、耐えきれずベッドになだれ込んだ。
四肢の力を抜いて布団に体をゆだねると、
疲労感が心地よいものに変わる。

枕に顔をうずめて瞳を閉じる…意識はすぐに形の無い所へと落ちていった。


「…きお」
意識の遠いところから、声がする。
「ん…」
「ゆきお、雪男」
ゆっくりと瞼を上げるとそこには、こちらを覗き込んでいる兄の顔があった。
ほんのりと頬が桃色に染まっている。
「…あれ…にいさん?」
ぼーっとしている頭のまま、おもい瞼を指で擦る。
「…メシ…どうする?まだ眠いか?」
ポタ、ポタ…と黒い髪から冷たい水が垂れている。
「ん…ごはん…?」
「俺が風呂から上がったら食う約束だったろ」
ああ…そういえば。
「んじゃ俺温め直してくっから。待ってろ」
そう言ってベッドから遠ざかろうとする兄の腕を、無意識のうちに掴んだ。
「? どうした?」
不思議そうにこちらを振り返る兄。
「…」
掴んだ腕を、そのまま力任せに引っ張った。
「!?う、うわっ」
案の定、兄は僕の上に倒れ込む。
「…いっで…!おい、なんのつもり」
がばっと起き上がろうとする兄をぎゅっと抱きしめた。
「!?」

なかば衝動的だった。

肩口にうずめた顔には濡れた髪が触れて、少し冷たい。
そして、髪から、首筋から、漂う石鹸の香り。
「…」
回した腕に力を込めると、体温も脈打つ鼓動も手に取るように感じられた。
しばしそのままで、ふと、蚊の鳴くような声が
「っ…くるし…」
「!、あっ、ごめん」
慌てて離す。
「おまえ…いき、なりなんだよ」息を整えながら口を開く兄。
「…なんとなく」
「なんとなくでっすまさっれるか!」
本当になんとなくだった。
衝動的に、触れたいと思った。
何故なのだろう、自分の気持ちがわからない。

しばらくそのまま黙っていると、
「…どうした?なんか嫌なことでもあったか?」
先ほどとはうってかわって、落ち着いた、気遣うような声色で兄が見つめてくる。
「…兄さん…」
「…あのさ…"夜"ってさ、淋しくなる時間なんだって。」
「え?」
兄さんは少し微笑みながら
「自分がひとりぼっちだって思う」
ひとり…
「人恋しくなって、つらくなって、誰かにそばにいてほしくて。」
「そんな、僕は…」
頭が重い。しらずにうつむいた。
「お前だって人間なんだ、そういう時だって必ずある」
「…」
自分で自分がわからないから、言葉も口を出ない。

ふわっと、またあの香りがした。
と思ったら、その匂いに包まれていた。
「、…兄さん?」
「…いいんだよ、疲れてるとこを見せたって」
「!」
心臓をぎゅっと掴まれたように一瞬、息が止まった。
「お前はいつも弱みを見せねえから…壊れるまで、人を頼らない」
ぎゅっ、と強く抱きしめられる。

「…もっと、」

小さな声。
少しだけ、震えていた。

「俺を頼れよ…」

「!」
その言葉に、胸の奥の方がじわ…っと熱くなる。
何故…
これを、期待していたのか?
「…わからない…」
自分の心が。
無意識に、兄の腕を縋るように掴んでいた。

そんな僕の心を察してか、兄さんは更に強く抱きしめてくれた。
「わからないままでいい」

兄さんはいつも…いつも、言わずとも、僕の心を知っている。
僕自身も分からないような心の奥まで、見透かしたように。

規則正しい鼓動の音、人の温もり。
心地良かった。
なにかが、満たされていくような…
「…あたたかい」
「あぁ」
兄さんは穏やかに頷く。

…また、救われた。
「ありがとう」
「、えっ」
兄さんは若干驚いた声をあげた。
普段めったに口にしない台詞だ。無理もないだろう。
「い、いや…別に…い今ここには俺しかいないしな。それにほら、俺兄ちゃんだし…」
動揺しつつも嬉しさの色を隠しきれていない声。
「ふふ、そう」

こうして、また、僕は溺れていく。
兄無しでは生きていけなくなるほどに。

甘いシャンプーの香りに包まれて、ゆっくり瞳を閉じた。






-end- 11/06/21




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