雪燐 書庫

□雪燐01 兄
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近頃の兄さんは、朝になれば支度が済み次第、すぐ部屋を出て行く。
どこにいくのかと聞いても、んー、まぁ…と気のない返事をするだけで具体的な事は答えない。
今日も兄は、寝間着のジャージから着替えると、机に向かう僕に一言「行ってくる」とだけ伝えて部屋から出て行った。

「……」
見れば木刀も無い。

そういえば、兄が最近新しい修行を始めたことを思い出した。その修行とは、悪魔の、それも頂点に君臨する青焔魔の青い炎を使って蝋燭に火をつけるというものだ。

シュラにいわれ兄はそれに挑戦するも、灯すどころか燃やしてしまうばかりなのだが。

「…そういうことか」
少し考えればすぐわかることだった。

修行に失敗するたびにすごく悔しそうにしていたこと…兄は負けず嫌いだ。失敗がその精神に火をつけたのなら…

ふいに、左腕にふわふわしたものが触れた。
「クロ」
すりすりと顔を押し付けてくる黒猫。
「兄さんはもう修行に行ったよ。クロは一緒に行かなかったの?」
頭を撫でてやりながら問う。

クロは、何か言いたげに雪男を見つめていたが、兄と違って言葉が通じない雪男には、何も伝わらない。
「…今日は寝坊しちゃったの?いつも一緒に行ってるもんな」
話すことは出来ずとも雪男の言葉はわかるクロは、大きく首を縦に振った。

「……」
すこし考えてから、自分の手にじゃれるクロを見やって、
「兄さんがいる場所、案内してくれる?一緒に行こう」
クロの顔がぱああっと明るくなる。雪男が立ち上がると同時に机から飛び降りたクロは、真っ先に扉の前へ走った。



小さな黒猫に先導され、連れてこられたのは屋上だった。
「…ここ?」
てっきり修行をしているものだと思っていたので、この前使った修行用の部屋ではなく、屋上に導かれたことに驚く。と、急に、青空に負けないほどに青い光が瞬いた。
「!」
クロがその光を見て走り出す。屋上の扉の上に、ものすごい跳躍力で飛び乗った。
雪男もそれに続いて、はしごに手をかけ登る。

「お、クロ」
聞き慣れた声がした。

顔を覗かせると、そこにはさきほど出て行った兄が、胡座をかいて座っていた。
クロがゴロゴロ…と喉を鳴らして兄にじゃれている。

「…兄さん」
突然響いた雪男の声に、驚いて顔を上げる兄、燐。
「ゆっゆきお!?」
「こんなところで…何してるの」
雪男も建物の上に乗り上げる。「てってかお前なんでここにいんだよ」
ひどく驚いた顔で冷や汗を流しながら燐が問い返す。

いまだ兄にすりついているクロに視線を移して、
「クロが寂しそうだったからだよ。なんで置いていったの」
燐の隣に座る。
「そっ…それは…」
クロの頭を撫でて、若干声のトーンを落とし燐が言う。
「よく寝てたから起こしたら可哀想だろ…」
クロが何か応えたのか、
「ん?え、そか…ごめんごめん」雪男からしたら燐が独り言を言っているようにしかみえないが、その様子からするに、恐らくクロは、起こしてでも連れて行ってほしかったのだと主張したのだろう。
「でもなんで雪男も一緒に?」
「クロじゃ部屋の扉を開けられないから」
「あー、そか」
兄の周りに散らばる、燃え尽きた蝋燭を眺める。
「いつもここで修行してるの?」燐はクロの相手をしながら、
「…」
苦虫を噛み潰したような顔を雪男に向ける。
「…バレちゃ、しょーがねえか」はぁ、とため息をついた。
「あそこ…、修行場?さ、暑苦しいし狭いんだよな。窓もねえし」
「…換気扇もクーラーもあるじゃないか」
「そっ、それは…そうだけど…なんか、こっちのが好きなんだよ」
と、燐は空を仰ぐ。

「…。まあいいけど…。」

今のような時間帯じゃ、起きている人はおろか外に出ている人もいないだろう。
兄も兄なりにそう考えて、この時間帯を選んでいるのか。

兄に視線を戻す。
ー…はっ、とした。
風に撫でられ揺れる黒い髪、
少し尖った耳。
そして、青い空の色が映りこんだような、いや、もっと深く蒼く揺らめく瞳。
その中に白い雲が流れていく。

同じ瞳の色なのに、自分とはまったく違う色彩に見えた。

「ん、あれ?でもお前までこなくてもいいんじゃねえか?」
その唐突な声に、我に返った雪男はメガネを押し上げながら、
「…最近、行き先も告げずに出て行くだろ。僕は監視役なんだ、兄さんがどこにいるか知っていなくちゃいけない」
「またそれか…」
「また、って…。兄さんにはもう勝手な行動は許されていないんだよ」
はあ、と大袈裟にため息をつく雪男。
燐がこのため息に弱いことを知っているのだ。

思った通り、燐はそれ以上何も言わなかった。

腕時計に視線を落とす。
もう6時か…
「兄さん、そろそろ戻ろう。僕は塾があるし…兄さんを一人にしておくわけにはいかないから」
学校は夏休みで無いものの、塾はある。
とはいっても燐は別カリキュラムで、シュラがくるまで訓練場に待機なのだが。
「…あー、そうだったな。んじゃ行くか」
燐が立ち上がる直前に、クロがその肩に乗った。

蝋燭の片付けを、雪男も手伝う。
手にとった蝋燭は、この間のものより残ったろうの量が多く、少しは進歩しているみたいだ。

兄は手に持った蝋燭を見つめて、なにやら考え深げな顔をしている。しかしすぐにそれを袋にポイッと入れると、その袋を持って飛び降りた。
自分も兄に続いて…はしごを降りた。



塾が終わり、自室に戻る。
腕時計を見れば、午後6時を回っていた。
部屋のドアノブに手をかける。鍵はあいており、キィ…と音を立てて扉を開けた。

「…兄さん?帰ってるの?」
返事はなく、代わりに規則的な寝息がかえってきた。
寝てるのか…
コートを壁にかけ、ネクタイを外すと、燐の寝台に歩み寄った。
予想通り、兄はぐっすりとベッドに体を預けて寝入っている。
よっぽど疲れているのか、電気が点いたままなのに起きる気配がない。

見ると、燐の左腕に打撲痕があった。
赤紫に、腫れている。この様子だと、たいした処置もせずにそのまま寝てしまったのだろう。

雪男は自分の机から救急箱を持ってくると、傷跡に消毒液をつけた。
「……う…」
染みるのか、燐がすこしたじろぐ。
思い出す、まだ兄が炎に目覚めていなかったあの頃を。
喧嘩して傷だらけで帰ってきた兄を、よくこうして手当てした。
そんな自分に、毎回感謝の言葉を述べ、笑いかけてくる兄。
喧嘩をするのも怪我をするのも雪男にとっては望ましくないことだが、
自分がしてあげたことに返される兄の態度が嬉しくて、
もっと綺麗に治してあげたくて、
自分は医者になりたいと思った。

悪魔の力に目覚めたこと以外は何も変わらない兄。
「いつまで…僕に手当てさせるつもりなの」
目の前で安心しきったように眠る兄に、言葉を投げかける。
返事は、はなから求めていなかった。
「…おれ…」
「?」
燐が急に声を上げたので、少し心臓が跳ねた。

起きたのかと思ったがそうではないらしく、眠ったまま喋っている。
「寝言…?」
「おれ…がんばるよ」
「…」

「いつも…たすけられてばっかりで…もっと強くなるから…」
「雪男は…俺が、守るから…」
「え…」
予想外の言葉。
「だからいじめられたらすぐ言えぇ…な?…むにゃ…」
「…」
まだ二人とも幼い頃と、現在の混ざった夢を見ているのか。
しかし、
「……僕を守るなんて…初めて聞いたよ」



ひとはずっと昔のままじゃない。僕だってそうだろう。
けれど、
いつも僕の前を行き、それでいて振り返らないわけではない、そんな兄を、"守る"と決めた心はずっと変わらない。
これから先もそうだ。

そう思う反面、その決意が自分の中で義務になってしまっているのではないか、知らないうちに兄へ重圧をかけているのではないか、と考えてしまう事もある。
しかしそんな不安は、他でもない兄によって消されていく。
昔から変わらない笑顔を向けてくれる。
振り返ってくれる。
そのたびに、守りたい、と思うのだから、義務なんかじゃない。


そんな僕を兄は、守るといった。
昔だったら素直に受け止めていたかもしれないが、まさか今の今まで兄がそんな事を思っているとは思わなかった。

おもうだけじゃない、おもわれているのだという事に、
少しだけ、嬉しさに似たあたたかいなにかが、胸にこみ上げた。


「僕を守る…か。兄さんを守るよりは簡単かもしれないな」
冗談まじりに呟いて、自分と同じ黒い髪を指でなでる。

僕がなにをしてもなにを言っても、決して僕だけには刃を向けない兄。
だからどんなにダメな人であろうと、自分の兄と胸を張っていえるのは、目の前に眠るたった一人の僕の兄だけだ。
「…おやすみ、兄さん」



明日は少し早起きしよう。
…溶けた蝋燭の片付けを手伝いにいくために。






-end- 11/03/16




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