その他BL

□その空白で呼んでいて
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・できてるふたり
・シリアス




 陽の光が差す窓辺に、ザップがひとりで立っている。葉巻の煙がゆらゆらと揺れながら立ち上り、赤い壁紙に淡い模様を添えている。
 細身の身体はタートルネックのインナーやベルト以外はすべて白で包まれていて、眩しい光に当たると輪郭がぼんやりとして見える。ザップは男にしては少し長い髪で耳を隠してしまっているので、斜めからのアングルからだとその褐色の肌も見えない。だから、本当に、透けているように見える時がある。
 スティーブンはマグカップを片手に黙ってその姿を眺めていたが、ザップが身動ぎひとつせず静かに窓の外を見つめ続けるのにどうしようもない不安を掻き立てられて、足音を立てて一歩そちらに踏み出した。こつん。そんな音が響くが、ザップは振り向かない。もう一歩。もう一歩。足音にも気付かないくらい夢中になるなにかが窓の外にあるのだろうか。スティーブンはザップまであと五歩程度のところで立ち止まり、改めてその姿を見つめる。距離が近くなったからか、ザップの輪郭はさっきよりしっかりと見えていた。
 紫煙が揺れている。ザップが銜えていた葉巻を指に挟んで唇から離す。重たくて、ウッディな香りがふんわりと漂う。スティーブンはこの香りが好きだ。ザップを抱きしめたときにするこのなんとも言えない香り。ザップ自身の匂いと混ざって、彼だけの芳香になる。それが好きだ。いや、今だって好きなのだ。苦手になってしまったのは、その紫煙の動き。
 まるで蛇のように身をくねらせて、ザップに絡みつく靄。スティーブンは忌まわしいものを見るように目を細めた。
 不意に、霧の動きが変わったのか、いつもより強く陽の光が射し込んだ。ザップの輪郭がまた薄くなる。当の本人はそんなことには気付かない。だからゆっくりと葉巻を銜え直し、またその香りを楽しむ。揺れた煙がザップの顔を隠してしまう。

「ザップ」

 思わず名前を呼んだ。そしてひんやりとした心地になった。ザップ。そう、彼の名前はザップだ。
 けれど。

「……スティーブンさん?」

 ザップは振り向く。いつの間にそこにいたんだと言いたげな顔でスティーブンを見て、それから「どうかしましたか」と首を傾げる。さらりと銀糸が揺れた。スティーブンは一瞬呆気に取られ、もう一度、ぼんやりとした声で「ザップ」と呼んだ。ザップは怪訝そうな顔をする。
 スティーブンは思わず戸惑い眉を寄せ、けれど自分がなにに戸惑ったのかが分からずに一瞬言葉を失う。それからやっと唇を震わせて、ぎこちなく笑ってみせた。

「……ザップ」
「んん? ちょっと、なんか変ですよ、スティーブンさん」
「ああ、そうだな。変だな」
「ええ、自覚あり? つーか、本当にどうしたんすか。なんかありました?」

 ザップの疑問は当然のものだろう。こんな風に何度も名前を呼び、そして微笑まれて戸惑わない者がいるわけがない。スティーブンは何故か泣きそうな気分になりながら、なんでもないんだと言って首を横に振る。それでも衝動は抑えられず、スティーブンは喉を震わせて目の前に立つザップの名を呼んだ。ザップ。囁くような声になった。ザップは、不意に顔を上げて鼻をひくつかせるリスに似た表情でスティーブンを見た。

「ザップ」
「本当に変なの」
「ザップ」
「どうしちまったんすか?」
「ザップ」
「あー、参った。旦那いねえし。ちょっとちょっとスティーブンさん、しっかりしてくださいって」

 ザップが困ったようにそう言うのを聞いて、スティーブンも漸く口を閉じた。それから今度は別の感情に眉を寄せる。
 違和感が、ある。けれどその違和感の正体がなにかが分からず、スティーブンはただただザップを見つめた。見つめられているザップも右に左に首を傾げている。
 お互いがお互いになにかが変だと感じている。けれどスティーブンがその“なにか”の見当がつかずに戸惑うのとは違い、ザップはその違和感がなんなのかを正確に理解しているようだ。ザップ。もう一度名前を呼ぶと、ザップはついと顔を背け、それから背中を向けて走り出してしまう。スティーブンは突然のことに反応が遅れる。ザップ。その背中に声をかけるが、ザップは振り向かない。そのままどこかへと走り去ってしまう。
 ザップ。スティーブンはもう一度呼んだ。ザップが遠くに消えていく。
 銀色が世界に溢れた白に溶けていく。気が付けばスティーブンは、上も下も右も左もない真っ白な世界の中にひとりぼっちで立っていた。
 しんと静まり返り、自分の呼吸さえ聞こえない世界の中でスティーブンは漸く違和感の正体に気が付いた。
 ザップは、自分を呼ぶ声に一度も返事をしなかった。「はい」とか「なんすか」とは言わず、ずっとスティーブンの様子が変だと指摘し続けていた。最初の一回もスティーブンの声に気付いたのではないのだろう。ただ近くに誰かがいると思って振り向いただけだ。
 ああ、なんだ。
 スティーブンは落胆する。
 泥濘を長時間歩き続けたかのように、身体が重い。スティーブンはザップが去っていった方向を見る。目印になるものもなにもない世界の中では、本当に今見ている方向にザップが走っていったのか判断する方法もない。ザップはどこに行ってしまったのだろう。スティーブンには分からない。知る術もない。
 後ろから髪を引っ張られるような感覚がして、スティーブンは目を閉じた。閉じた先に見えるのも白だ。もうどこにも逃げられないのだと思った。胸が張り裂けそうなほど痛くなった。
 なにも変わっていないじゃないか。
 なにひとつだって、変わっていないじゃないか――。



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