千変万化
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何かがへし折れる音と通行人の悲鳴。血が朝日に熱せられたアスファルトに落ちると、雨がトタン屋根を叩くような音がした。
その血が乾かないうちにまた一滴、二滴と道路に新しい雫が落ちる。
目の前の惨劇、そしてこの後に起きるであろう暴力の嵐に脅えて逃げ始める通行人の声を聞きながら、青いサングラスをかけたバーテン服の男は頭を押さえる。
ーー俺が何をした。
少年の頃から考え続け、今だに答えの出ない疑問を誰かに問い掛ける。
頭を押さえた手はぬるりと滑り、額から流れ落ちた赤い血にバーテン服は怒りを覚えた。拳を握ればギリッと筋肉が軋む音がする。
バーテン服の男は何もしていない。昨晩上司に言われた通り、いつもより三時間早い時間に通勤していただけだった。
何処かの誰かの身勝手の所為で生活のリズムが狂わされたことに関して苛立ちながら歩いていただけで、特に周りに迷惑をかけていたわけではない。
そんな男の背中に振り下ろされたのは、ヤスリで丁寧に削られた角材だった。
細かな木片を撒き散らしながら二つに割れた角材。背中を襲った衝撃に振り向いた瞬間背後にいた少年の歪んだ笑みが目に入り、同時に頭に衝撃が走る。
ビルの隙間から覗く朝日が、背後に立つ少年が掲げる金属バットを照らした。
まるで耳元でシンバルを叩かれたようなショックと痛み。振り抜かれたバットの後を追うように鮮血が散った。
「やっちまえ!」
「殺せ!今ならやれるぞ!」
身勝手極まりないはしゃぎ声。
見て見ぬふりをして逃げる通行人。
そして何故ごく普通に通勤していた自分がこんな目に遭わなければいけないのかという怒りがバーテン服の男の頭をある言葉で埋めつくす。
ーー殺す。
なによりもシンプルで、それ故にどんな言葉よりも恐ろしい単語。色でたとえるなら、今バーテン服の男の顔を濡らしている赤が一番ふさわしい。
男はゆっくりとサングラスを外し、胸元のポケットにしまった。
「…こんな朝っぱらに起き抜けの人畜無害な社会人の身体を角材やらバットやらの凶器で殴り付けたんだ…」
そう呟く間にもガンガンと殴られるが、バーテン服の男は口を閉じなかった。
理不尽な攻撃には昔から慣れている。
孤独を抱える心とは裏腹に強靱かつしなやかに成長した筋肉は、殴られる衝撃を受け流して痛みを生ませなかった。
いつまでたってもよろけもしなければ悲鳴もあげない男に焦る不良の少年達。
そんな彼らを尻目にバーテン服の男はゆっくりと右手を伸ばして近くにあった標識を掴み…それを簡単に引き抜いてみせた。
それを見て凍り付いたのは少年達だ。
まるで雑草を抜くかのようにあっさりと引き抜かれた標識と、男の無表情。元々標識が立っていた場所はそこだけ大地震が起きたかのようにアスファルトがひび割れ剥がれて盛り上がり、引き抜く力の強さを物語っていた。
呆然とする少年の前、ぶぉんと風を切って振るわれた「止まれ」の標識。バーテン服の男はそれを構えて吠える。
「ならブチ殺されても…文句は言えねぇよなァ!?」
そこからはいつものとおり、池袋の日常的な光景が広がった。
振り回される標識に弾かれる者、蹴り飛ばされる者、吹っ飛んだ者の巻き添えになった者、空を舞った者と修羅場が広がった。
その間にも男の頭からはだらだらと血が流れていたが、そんなことにはお構い無しで暴れ回る。
脳内にある「殲滅」という言葉が男の身体を動かしていた。
まるで自分に降り掛かる全ての理不尽を跳ねとばすように男は吠えて腕と標識を振り回す。
やがて最後の一人が悲鳴を上げて逃げ出すのを見て、男はなんの躊躇いもなく標識を構えた。槍投げの構えを取り、助走をつけて腕を思い切り後ろに引く。
ーーコロスコロスコロスコロスコロス…!!
怒り狂った男が遠ざかる背中に向けて標識という名の槍を投擲しようとした時。
「ッ!?」
くい。
小さな、だが助走の勢いを殺すには十分な力で男のベストの裾が引かれた。
予想外の事態に足が止まる男。逃げていた少年は角を曲がって見えなくなった。
ざわざわと騒めく周りの人間の声。それよりも男は自分を止めた人間への怒りで頭が一杯になった。今の男は物事に敏感だ。ほんの些細なことでも過敏に反応して爆発してしまう。
「…邪魔…」
強く握られてべこりとへこんだ標識。それを振り向きざまに後ろにいる人間の脳天に叩きつけてやろう。そう思って男は腕を高く上げた。きゃあっと周りから悲鳴が上がる。
「してんじゃ、ね…っ」
男の目が丸くなった。振り上げた腕が鎖で繋がれたように止まる。
それは、純粋に驚きからだった。
「…あ…?」
自分を止めた人間があまりに予想外すぎる姿をしていた為、脳も筋肉も全てがフリーズした。
怒りに身体を委ねたら最後、立ち上がる者がいなくなるまで暴れていた男には考えられない事だった。
男は目の前にいる中性的な人物の姿に釘付けになったのだ。
「…ち」
袖が膨らんでいる服を着た裸足の人間が生白い手で静雄の服を掴んでいる。
「ちが」
凍り付いた世界の中で生白い人間が言った。
「あたまから、ちが、たくさん出ています」
そう言った人間の頭には真っ赤な包帯。鼻からは夥しい血が流れ、頬は擦り傷でズタズタだった。
「てあてを、しないと」
上下真っ白な服に夥しい量の血痕を付け、頭も首も手も足も傷の無いところを探す方が困難なのではないかというくらい傷つき血塗れの人間が、目だけは健康そうな光を放って男を見つめていた。
「…けがは、いたそうだから」
その異質さと言葉の異常さ、そして声音の静かさに、男は気付くと標識を下ろしていた。
吠え続けた所為か乾いた喉を唾を飲み込んで湿らせ、男はぼそりと呟いた。
「…お前のが痛そうだろ」
怪我をした人は小さく首を傾げて少し黙り、それから「大丈夫です」と言い、頭に巻かれた包帯を指差した。
「てあて、してます。もうだいじょうぶ」
舌足らずで擦れた声だった。男は眉を寄せて血塗れの包帯を見る。本来白であるはずのそれは赤黒い色に変わっていて、見るからに不衛生な感じがした。
ーーなんだ、コイツ。
どう考えても普通とは言えない人間に警戒心を抱く。
男が黙り込んでいると頭に包帯を巻いた人間は自分の服の袖を見下ろし、その端を口にくわえてグイッと引っ張った。揺れた袖の隙間から白い腕が覗き、男は何故か居たたまれないような気持ちになる。
「…何してんだ」
「布はけがにまくと、いい、です。ちを止めるのが、だいじです。このぶぶんは、よごれていないから、切れば、てあてです」
擦れて聞こえにくい声で包帯の人間が言う。男は呆気に取られながら包帯の人間を見下ろした。
「…それよりお前の手当てのが先だろ」
「てあて、してます」
ほら、と言わんばかりに頭の包帯を差す。男は溜息を吐きながら手に持った標識を道の端に投げ、それからがりがりと前髪の辺りを掻いた。
包帯の人間が纏う空気に毒気が抜かれ、男は穏やかな顔になっていた。
「血がついた包帯なんか逆に悪化するだろ…。お前保険証持ってるか?」
多分この怪我ではあまり長く歩けない。近くの病院までなら送っていってやろう。
男はそんな気持ちで言ったのだが、包帯の人間はぱちぱちとまばたきをするだけで返事をしない。
「持ってないのか?」
「…ほ、けんしょう、とは、なんですか?」
「…あぁ?」
予想外の言葉に男は目を丸くして包帯の人間を見た。
保険証を知らない歳には見えないが、じっと男を見上げて説明を求める姿は嘘を吐いているようには見えないし、嘘を吐くメリットも無い。
ーー本当になんなんだ?
男がどうするべきかを考えて唇を噛むと、包帯の人間がはっとした様子で目を開きその焦茶の瞳に男を映した。
「あの。あの、ここは、いけぶくろですか?いけぶくろで、あっていますか?」
「ん?お前、ブクロに住んでるんじゃねぇのか?」
てっきり池袋の住民かと思っていた。男が尋ねると包帯の人間はふるふると首を振る。
「…よるに、くろい人に、言われました。いけぶくろにいくといいよ、と。いけぶくろにいけば、きっとだいじょうぶだよと。ここは、いけぶくろですか?いけぶくろは、だいじょうぶですか?」
「何が大丈夫かは知らねえが池袋で合ってるぞ」
くろい人。一瞬男の頭に怨敵である青年の顔が浮かぶ。
ーーまさか、こいつ。
不穏な予想が頭をよぎる。だが男の眉間に皺が寄り尋問が始まるより早く、目の前の人間が力の抜けたような顔で微笑んだ。同時にふらりとその身体がよろける。
「…よかった…」
「っ、おい!」
「…もう、こわくない…」
咄嗟に倒れこんできた身体を支える。
ひんやりと冷たい身体に一瞬息が止まった。
そっと顔を覗き込む。どうやら気を失っているようで、顔色も悪い。
全身傷と血と泥まみれで一体何があればこんな身体になるのかと男は眉を寄せる。
「…クソ」
男はチッと舌打ちをすると器用に体勢を変え、その広い背中に気を失った身体を乗せた。身体が落ちないように腕を回して背負うと、そのまま早足で歩きだす。
自分にはこの怪我人を助ける義理はない。関わりもない。もしかしたらとんでもない厄介事に巻き込まれるかもしれない。
それを承知で男はこの怪我人を背負った。
気を失う直前のあの安心しきった顔と「もう、こわくない」という呟きが頭にひっかかっていたのだ。
足を傷だらけにして、どれだけ歩いていたのだろう。
男はちらりと背中の怪我人を振り返る。
「…おい、死ぬなよ。今助けてやるから」
気を失った身体にそう声をかけ、男は走りだす。
この怪我人を診ることが出来るであろう男の元まで。
end