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□stay with me(水→←純)
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今朝の夢で、兄さんは泣いていた。
僕の記憶にいる兄さんは、ど忘れでもしていない限り、弟である僕の前で涙を見せたことは一度たりともない。わけもわからず風海家に引き取られて来た中学生の頃から今にいたるまで、一度も。
それは僕の前では良い兄であろうとする兄さんの優しさからくるものであろうことはわかっている。
強い兄さん。
優しい兄さん。
だけど、
今朝の夢で兄さんは、泣いていた。
『なんで いままで どこに』
広い背中を小さく震わせて、やっと絞り出したような嗚咽混じりの声で。
僕からは顔も見えない「その人」のために。
「その人」はすがり付くような兄さんの声に気づいていないかのように、背を向けて去ろうとする。
その背中を、聞いているこちらが苦しくなるような悲痛な声が追いかける。
体がうまく動かないのだろうか、ふらふらとした足取りで、黒いスーツが泥まみれになっても。
『まって…まってくれ』
『…っ……さん』
そして呼ばれた「その人」は振りかえるんだ。
『−−…父さんっ』
…そこにいるのは、僕の知っている兄さんじゃない。
親の愛を求める非力な一人の青年。ただの、霧崎水明だった。
…目覚めは最悪。最愛の兄が、自分ではない他の誰かに頼る姿を見た。ただそれだけのことなのに。それも夢の中で。
でも、ただの夢では済まないように感じるのもまた事実だ。夜の冷えた空気や、湿っぽい土のにおいがやけにリアルに感じられて、胸騒ぎがする。
まるでその夢に急かされたように、気がつけば僕は兄さんの勤める須未乃大学へやって来ていた。
研究室が集まる棟の、奥の方にひっそりとある一室。兄さんが入り浸っているはずの研究室の前に立つと、僕は深呼吸をして、そっと数回ノックする。
……返事はない。
こんな、まだ日も昇りきらないような朝早くに訪ねてきているのだから、部屋の主が中にいなくて当然だ。
でも、なんだろう、この焦燥感は。なんで僕はこんなに心細いんだろう。たかが夢を見たくらいのことで…
ふらふらと、僕はドアノブに手をかけ、ひねる。
−−−え……開いた?
ガチャリと錆び付いた音を立て、扉はゆっくりと部屋に吸い込まれていく。
それはつまり、部屋の中に人がいるということで。
「………兄さん?」
相変わらず雑然とした部屋に呼び掛けてみたけれど、返事はない。僕はなるべく物音をたてないよう、中に入った。
いつもなら、ぼくが部屋に入ったことに気がつくと、もくもくと立ち上る紫煙の中からソファに座った兄さんが顔を出してくれるはずなのだ。
今日はその紫煙すら見当たらない。煙草のにおいだって−−
……におい?
そこで僕は気がついた。普段の部屋のにおい−−古びた紙のにおいや煙草のヤニのにおいにまじって、泥土のようなにおいが漂っていることに。
……泥…夢……兄さん!
弾かれたように部屋の奥まで駆け込むと、そこにはソファーに横たわる兄さんの姿があった。
「兄さん!」
何があったのか、と抱き起こそうとして、微かな寝息に気がつく。……眠ってる?
ほっ、と安堵すると同時に沸き上がる疑問。なぜこんな早朝からここにいるのか?昨日はマンションには帰らなかったのか?兄さんの衣服や靴のあちこちにこびりついた泥のようなものはなんなのか?それに…この、両手首にくっきりと残る痣はなんなのか?
まるで、湿った土の上で長い時間拘束されていたような。
まるで…今朝の夢の中にいたような。
…やっぱり。こんなにボロボロになっても、兄さんは僕には助けを求めないんだ。
夢で見たあの人、お父さんに助けてもらったのかな。僕なんかよりずっと頼りになって、兄さんが心を許せる人に。
「………っ」
気づけば僕は、眠る兄さんの胸にすがりついていた。大好きな兄さんのにおいに混じって、泥のにおいが鼻をくすぐる。
ねえ兄さん、なんで僕はあんな夢を見ちゃったのかな?
あんな、自分の無力さをみせつけられるような、苦しい夢を…
ねえ、ねえ兄さん、僕じゃ、兄さんを守れないのかな?
兄さんのそばにいるのは、僕じゃ、だめなのかな…?
頬っぺたが冷たい。ああ、僕は泣いてるんだなあなんて、やっと気がついた。
僕は最低な弟だ。怖い夢を見て、勝手に学校まで押しかけて、傷ついた兄さんを見つけて、それなのに手当てもしないで、自分勝手な感傷に耽って。
その上、その感傷の原因が嫉妬なのだから、救いようがない。
これじゃだめだ、とにかく、兄さんの状態を確かめようと、顔をあげたその時、不意に大きな手が、頭に置かれた。
………え?
「…にい、さん」
いつから起きていたのであろうか、上体を起こした兄さんが、僕を見つめていた。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でながら優しく微笑む顔は、僕のよく知る兄さんのそれで。仕方のない子だ、と深い瞳で語っている。
「…どうした、今日はずいぶん早いな」
いつもの口調、低く響いて心地の良い声。
こんな状態でも、兄さんは僕に弱さをみせようとしない。
「純也?」
ずっと黙っている僕を、兄さんの顔が覗き込んでくる。
言いたいことは胸の中に渦巻いているのに、口を開けば溢れてくるのは嗚咽ばかりで。
そんな僕を見て、兄さんはふっと笑った。意味不明の僕の行動を咎めることもせず。
そして次の瞬間、一層濃度を増す大好きなにおい。
それが兄さんに抱き締められたからだと理解するのにしばらくかかった。
「に、いさん…?」
「純也、隠し事はなし、だろう?」
なんで泣いているのか教えてくれ、と僕の背中を兄さんの温かい手が優しくさする。
それだけで止まってしまう僕の涙はなんて現金なんだろう。
ああ、でもそれは、ずるい。
「…兄さんこそ、何があったのか、ちゃんと教えて」
兄さんの目がわずかに見開かれる。
「ちゃんと僕のことを頼りにして欲しい。兄さんのこと、ちゃんと全部知りたいんだ…誰よりも、近くにいたいから」
たとえそれがあなたの家族であったとしても。
「…純也」
「だって、僕は」
ずっとあなたの弟でいたかったんだ。だけどもう限界。
それが兄さんとの隔たりになってしまうのなら、そんなもの、もういらない。
「僕は、兄さんのことが−−」
「純也っ!」
言葉の続きが出てこない。
それは、兄さんの唇によって飲み込まれてしまったから。
夢見ていたものとはほど遠い、荒々しくて痛いくらいのキス。
だけど−−
「…っ、俺も、だから」
「大丈夫だ…純也…っ」
「あい、してる」
どうしようもなく、満たされてしまう。
「…にいさん、もっと」
誰よりも、
「愛して」
その日、僕たちは「兄弟」を、やめた。
(これで、誰よりも、近くに)
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D.K.篇直後のお話(のつもり)