‡悟飯受けの部屋‡

□【去り行くあなたへ】
1ページ/4ページ


パオズ山の麓に位置する、小さな我が家。

丸いテーブルを囲むダイニングに、年代物の古びたテレビが居座るリビング、こじんまりとした佇まいに、外には昔懐かしのドラム缶風呂。

決して裕福ではないけれど、この空間には家族の明るい声と笑顔が絶えなかった。

俺たち兄弟が生まれ育って、幸福に過ごしてきた、暖かな家。

兄ちゃんは今日、ここを出て行く。

結婚なんてものは既存の紙切れ一枚を役所に提出するだけで成立するけれど、引っ越しの方はそうもいかず、土地の購入に住宅の注文、ライフラインの手配に家財道具の下見と、兄ちゃんの引っ越しは数ヶ月も前から始まっていた。

そして、兄ちゃんの引っ越しの当日の今日、兄ちゃんの荷物がなくなってガランとした部屋に、俺はひとりきりで立っていた。

改めて中をぐるりと見回してみると、それなりに広いようにも思える。

ああ、そうか。

家族がひとり減っただけで、これからは居住空間のすべてが今までより広く感じるんだ。

そう思った途端に寂寥感に襲われて、俺は唇を噛み締めた。

鼻の奥がツーンとして、噛んだ唇も握った拳も震えたけど、いつまでもこうして感傷に浸っていられるわけではないのを思い出し、込み上げてくる涙をどうにか堪えたんだ。

兄ちゃんの荷物がなくなったこの部屋に、今度は俺の荷物を運び込まなければならなかったから。

兄ちゃんがいなくなった部屋。

兄ちゃんが使ってた部屋。

今日からはこの部屋が、俺の部屋になる。

部屋数の少ない我が家の一角を俺に宛てがわれると知った時、愚かにも俺は喜んだ。

それから暫く経って、ふと気付いたんだ。

兄ちゃんの部屋がなくなったら、この家にはもう、兄ちゃんが帰って来る場所がないんだってことに。

それから数日間は、デキの悪い自分の頭をたっぷりと恨んだよ。

念願叶ってようやく自分の部屋がもらえると舞い上がった分だけ、しっかり落ち込んだ。

それで、ね。

その時、わかっちゃったんだ。

兄ちゃんには新しい居場所ができたんだから、戻って来た時の心配なんかしなくたっていいんだ、ってこと。

いつか兄ちゃんが戻って来てくれるのを、俺が期待したいだけなんだ、ってこと。

バカだよね。

今さら、どうにもならないっていうのにさ。

ここまできたらもう、諦めるしか方法がないっていうのにさ。

しかも最悪なことに、今頃になって、俺から兄ちゃんを奪ったあの女性に対しての嫉妬がふつふつと湧いてきちゃったんだ。

さらに可笑しなことに、これから兄ちゃんを幸福にしてくれるのは彼女なんだって思ったら、兄ちゃんをよろしくお願いします、なんて祈るような気持ちも芽生えてきたり。

多感な時期を迎えつつある俺は、もつれた毛糸のようにいろんな想いが絡み合って、けっこう複雑な心境だった。

その、めまぐるしく変化する心と自分の荷物を抱えて家の中を何往復もしていた俺が『それ』を発見したのは、クローゼットを開けた時だった。

アルバム。

兄ちゃんが学生時代に使っていた教科書や参考書と同じくらい分厚いのに、冊数はゆうに十を超えていた。

表紙をめくらなくても、中に収められているものを俺は知っている。

兄ちゃんと、俺の写真。

兄ちゃんの写真はよくお母さんが撮ってたけど、俺の写真の撮影者は、ほとんどが兄ちゃんだった。

ああ、こいつ、俺と同じで置いてきぼり食っちゃったんだ。

そう思った途端、涙が溢れて止まらなくなった。

『僕にとってお前はもう要らない存在なんだ』と無言のうちに兄ちゃんに宣告されたみたいで、辛くて悲しくて、やりきれなかった。

すると不思議なことに、写真を撮影した当時の記憶が次から次へと蘇ってきて、ついに俺は床に突っ伏して、みっともないくらいに泣きじゃくった。

置き去りにされたアルバム。

兄ちゃんに置いて行かれた、俺。

あんなに、愛してくれていたのに。

あんなに、愛されていた筈なのに。

兄ちゃんの邪魔をして叱られても、危ないことをして怒られても、悪戯をして困らせても、いつも最後には兄ちゃんは俺を許してくれた。

兄ちゃんに許してもらえたと、思っていた。

本当は、嫌だった?

内心では、呆れてた?

俺みたいな頭の悪い弟、いない方が良かった?

兄ちゃんに嫌われても仕方がないようなあれこれが涙と一緒に溢れてきて、俺の過去の愚行の数々への情けなさまで止まらなくなった。

手遅れの初恋を自覚したばかりだったから、なおさらキツかった。

俺がもっと優秀だったらとか、もう少し聞き分けが良かったらとか、とりとめもないことまで考えた。

それからたっぷりと自分の存在価値を否定して、これからは心を入れ替えようなんて、ようやく気持ちが前を向き始めた頃、リビングからお母さんが俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ