‡悟飯受けの部屋‡
□【花盗人】
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ハイスクールの夏休みも残すところあとわずかとなったある日、数週間ぶりに天界を訪れた悟飯は、花壇の一角を占める赤い花に目を奪われた。
サルビア。
夏から秋に移行するこの時期には珍しい花でもない。
温室に咲く蘭のように華麗でもなければ、手入れ次第でアーチ状に咲き誇って人々をメルヘンの世界に誘う薔薇のように豪奢でもない、人の手などなくても、どこにでも咲いていそうな野の花。
格別に艶やかな容姿を持つでもなく、格段に芳しい香気を放つでもない、ありふれた花。
なのに、天界の一部を赤く染め上げるサルビアは、花の蜜の味を知る悟飯の心を魅了した。
その昔、父親の悟空からサルビアの蜜の吸い方を教わった悟飯は、ピッコロによって荒野に捨てられてサバイバルな生活を送っていた頃、たびたび咽喉の乾きをサルビアの蜜で潤した。
以来、サルビアの花を見ると途端に悟飯の口内には蜜の味が蘇り、脳裏にはこの花にまつわる思い出が浮かんでは消えてゆくようになった。
そして、次々と発掘される思い出たちは、おのずとピッコロとの修行へと姿を変えてゆくのだった。
荒野での厳しかったサバイバル生活が可愛く思えるほどの、苛烈を極めたピッコロとの修行は、地獄の鬼でさえも驚くくらいに過酷なものだった。
時には獅子の子の如く高い崖から谷底に落とされ、時には川辺の小石のように幾度も流れの急な川に放り込まれた。
『今度こそ殺される』『このままでは死んでしまう』『もう助からない』、そう思ったのも一度や二度ではない。
超絶スパルタ式の修行の間、ピッコロは幼児の悟飯に対して、一切の容赦も1グラムの情けもかけなかった。
いま思い返してみても、よく生き延びられたものだと思う。
だが、いつのことだっただろうか、ピッコロのシゴキに悟飯の体が慣れ始めたある時、悟飯に冷たく背を向けたピッコロが、悟飯の身を案じているのを感じたのだ。
おそらく、生まれた直後から頼れる者なくたったひとりで生き抜いてきたピッコロは、他者に優しく手を差し伸べる術を誰からも教わらなかったのだろう。
言葉の端々からピッコロの生い立ちを知るに至った悟飯は、他人への優しさの示し方を知らないピッコロが孤独であったのを幼心に悟ったのだった。
だが、今やピッコロは孤独などではない筈だ。
ピッコロには、戦友となった悟空がいる。
天界にはピッコロと同じナメック星人のデンデもいる。
そして、ナメック星人ではないけれど、デンデと同じようにピッコロを慕う悟飯もいる。
同じ『慕う』でも、デンデとは少し・・・いや、かなり意味合いが違ってはいるが。
そうしてポツポツとピッコロとの過去を思うたび、あんなに凄惨な筈だった思い出がほのかな甘味を帯びているように感じてしまうのは何故なのだろうか。
そう、このサルビアの蜜のように。
馳せた思い出に誘われるようにサルビアの小さな花を摘むと、悟飯は花の根もとを唇に挟んで、ピッコロの唇を吸うのと同じくらいに小さく吸った。
途端に、微量の蜜のほのかな甘さが口内にとけてゆく。
悟飯がそれを、胸中の思い出に甘さを加えるように唾液とともに飲み込むと、乾いた咽喉が潤ったかに思えてしまうのは、錯覚なのだろうか。
ピッコロとの出逢いは、悟飯の人生を大きく変えた。
ピッコロの人生も、悟飯との出逢いで変わったのだろうか。
ピッコロを想う胸の熱さと一緒にサルビアの花びらを唇から吐き出し、何気なくついと地面に放ろうとしたその時、明らかに非難の意図を篭められた冷たい声が背後よりかけられ、悟飯はぎょっと身を竦ませた。
「それで?ミスターポポがデンデの為に心を篭めて丹精に育てた花をお前は摘み取って、花の蜜を吸った後、その花びらをどうするつもりだったのだ?まさかとは思うが、そのままその辺に放るつもりだったんじゃないだろうな?」
「ピ・・・ピッコロさん・・・あ、いや、これは・・・その・・・」
思い出に浸るあまりピッコロが近付いて来るのにまるで気付かなかったが、一体いつの間にピッコロが現れたのだろうかという問題より何より、ピッコロに咎められるような罪を無意識のうちに犯していた己の迂闊さに、悟飯は言い訳の言葉すら思い浮かばなかった。
ピッコロの表現が決して大げさなものなどではないのを、悟飯も知っている。
ここ天界は、天候や気候の変化がなく、一年中安定した気温と湿度に守られている。
変化に富んだ地球上で、一年を通して快適に過ごせる唯一の場所と言えば聞こえは良いが、下界の天気に左右されることもない代わりに、季節が移ろうこともない。