隠
□泡沫
1ページ/7ページ
―――徳井、ごめん。ネタが覚えられへん…―――
泣きそうな声で福田がそう言った時、俺は少なからず驚いた。
だって、今までなら、本番の五時間前に初めて見せた新ネタだって、福田は何も言わずに完璧に覚えていたし。
福田が、そんな弱気なことを言うこと自体が初めてで、俺は動揺した。
最近、忙しかったし。全然寝られてないし。きっと疲れが溜まってぼーっとしてんねやろ。
安易にそう思った――。
福田がその時、どれ程追い詰められていたか。どれ程苦しかったか。それは今思えば、想像に余りあるというのに。
それやのに、あの時の俺は福田にひどい仕打ちをした。
寝不足でイラついていた俺は、追い詰められていた福田に、残酷な言葉を放った。
「そんなことじゃ困るで、福。たるんどるんちゃう?」
福田は項垂れて、ごめんと小さい声で謝った。
今までそんなことを一度も言うたことのない福が、あんなことを言うなんて、普通じゃないと、なんであの時、俺は気が付かんかったんか。
今、あん時に戻れるんやったら、おもいっきり自分を殴ってやりたい。
それからしばらくして、福田に異変が起こった。
舞台上でネタが飛ぶのだ。それも度々。
誰よりも努力家な福ちゃんはいつも一人で熱心に練習してる。
それに、やりなれたネタのはずなのに。
今までやったらありえへんことやった。
「福。どないしてん」
俺がそう言うと、
「最近、たるんどるんや。迷惑かけてごめんな」
と悲しく笑って見せた。
たるんどる。そんな訳がなかった。
昨日の夜も、福田は必死で台本を読み返し、稽古していたことを俺は知っている。
疲れとるんや。それだけや。きっと、たっぷり寝たらいつもの福に戻るはず。
俺は言い様のない不安感にひたすら、そう思い込もうとしていた。
それから、二週間もたたずに次の異変が起きた。
その日は、テレビの収録の仕事で、俺は楽屋で福田が来るのを待っていた。
いつもやったら、遅くても30分前には楽屋入りしている福が、今日は15分前になっても姿を見せなかった。
寝坊でもしたんかと、電話をしようと思ったその時、携帯の着信音が鳴った。
電話は福田からだった。
「福ちゃん?今どこにおんの?」
何気なく訊いただけなのに、返ってきたのは、意外過ぎる言葉だった。
「わかれへん」
「どういうことや?」
「わかれへんねん。どうやって局に行ったらええんか分からんっ…」
電話の向こうで福田はパニックに陥っている様子だった。
通い慣れた、局までの道で迷うとは信じがたくて、俺は一瞬息を呑んだ。
「福、落ち着きや。今、そっから何が見える?」
「銀行、マクド、ローソンが見える」
やはり、局のすぐ近くだ。
俺は不安に思っていたことが、徐々に具体化してくるのを感じた。
「大丈夫や。福、俺が誘導したるから、俺の言う通りに来んねんで?」
冷静さを完全になくした福田を電話で、必死に宥めた。
15分後、局にたどり着いた福田は、はた目から見て分かる程、色を無くして、唇を噛みしめていた。
「おはよう、福ちゃん」
わざと明るく、福田にそう声をかけると、福田は黙って右手で俺の肩を抱き寄せ、俺の胸に顔を押し付けた。
表情は見えなかったけれど、泣いているような気がしたから、安心させるように福田の背中に手をおいた。
「俺、もう駄目になる……」
圧し殺したその声は福田の悲鳴のように聞こえた。
・