ブリキの歴史覚帳
□第十八話 敵に塩を送る
1ページ/6ページ
.........................
ー…ザアッ……
「わあ……建物みたいな船…!!こんなに大きいんですね!!」
「ああ、安宅船(あたけぶね)という軍船だ。」
大きな犠牲を払いやっと手に入れた海で、こまは現代では博物館でも中々見る機会のない大きな木造の船を前に目を丸くしていた。
船には大きな櫓があり、そこにいくつもの弓矢が発射できる狭間が設置されている当時では最大で最強の軍船だった。
「尾張では織田信長が九鬼の率いる水軍を使って勢力を伸ばしている…甲斐を守るために、対抗手段は必要だ。」
「……。」
(信長さん……。)
あれから勢力の拡大を続ける信長は、すでに戦国最強と言われた武田の脅威とまでなりつつあった。
だがいつも聞こえてくる織田の話は物騒で苛烈な話ばかりで、あの日の信長と東の顔がちらつきこまの心をざわつかせた。
ー…パタパタ…
「お待たせ致しました、父上。」
「おお、勝頼。終わったか。」
晴信の言葉に笑顔で駆け寄ったのは、すっかり立派な青年へと成長を遂げ名を勝頼と改めた寅王丸だった。
長く仏門に入っていた為少々浮世離れしたところもあるものの、実の父である諏訪頼重を討った晴信に敵対心を見せるでもなく
寧ろ自分の命を救ってくれた恩人と捉えているようで、勝頼は晴信に従順な養子の息子となっていた。
「安宅船は初めて見たのでとても勉強になりました。尾張の織田もあのような軍船を使うとのこと…彼れを知りて己を知れば、百戦してあやうからず…ですよね。」
「はは、そうだな。勉強になったならば良かった。孫子を読んでいるのか?」
「はい、父上が読んでいたと聞いて…私も早く父上のように立派な武将になりたいですから。」
「そうか…。」
「はい!!」
そう穏やかに話す二人は、黙っていれば本当の親子に見えた。そんな二人を温かい目で見守るこまに、勝頼は今度は向き直った。
「こま様は昔、私の世話をしてくれていたと聞きました。遅ればせながら、感謝の意を……」
「えっ?そんなのいいんですよ!!というか…赤ん坊の頃の世話を感謝されるなんて初めてです。」
「いいえ、感謝こそ第一です。仏門でそれだけはひたすらに学び取ってまいりましたゆえ。」
「ふふ、では気持ちだけは有り難く受け取らせて頂きます。」
あの赤ん坊だった寅王丸の立派な言葉にこまも思わず頬を緩めると、勝頼は改めてまじまじとこまを見つめて言った。
「しかしこま様は昔、赤子であった私の世話をしてもらったとは思えぬ程に…お若くて美しくいらっしゃいますね。」
「えっ…そ…そんなお世辞言っても何も出てきませんよ〜!!ねえ晴信さん〜!!」
「そうだな、こまは出会った時から少しも変わらず美しい。自分ばかりが老いているようで不甲斐なく思うくらいだ。」
「えっ……。」
ー…ドクン…
晴信のその言葉に、こまは思わず言葉をつまらせた。
当たり前だ、私は晴信達と出会って、まだ一年半と少し程度しか経っていない。だがこちらの世界はあっという間に時が流れ去っているのだから。
そしてそれはきっと、瞬く間に終わりを告げる。
時間の流れが全く違うことは、もう嫌というほど分かってる。
こまはこみ上げる思いを閉じ込めるように、ごまかすように、ひときわ可笑しそうに笑ってみせた。
「まったまた〜!!化粧のせいですよ。まあそう思ってもらえているなら、私の化粧の腕は一流ということになりますね!!」
「ああ、勿論だ。こまは何においても私の自慢であるからな。」
「へっ…!?な…あ…ありがとう…ございます……。」
晴信のまっすぐな褒め言葉にこまが真っ赤になって尻すぼみに礼を言うと、晴信もまた愛おしそうにこまを見ながら微笑んだ。
そんな二人の様子を傍らで見ていた勝頼は、照れて幸せそうに笑う二人を交互に見やり、ニコッと笑った。
「まるでお二人は、父上と、母上のようですね。」
「「へ!?」」
勝頼がこまと晴信を見ながらしみじみと言った言葉に思わず二人は顔を赤らめた。
だがそれから続いた勝頼の言葉に、晴信はすぐに顔を曇らせた。
「父と母のことは全く覚えておりませんゆえ想像ですが…父上と母上がいたらこのようだったのかなと思いまして…。」
「勝頼さん……。」
「きっと優しいお二人の間に生まれるお子は幸せなんでしょうね、羨ましいな。」
その尊敬を含んだ屈託のない眼差しに、晴信は禰々の面差しを見たのかどこか複雑な笑顔を浮かべた。
勝頼の父も母も、自分が殺したようなもの。
それに信繁が生きていれば、きっと寅王丸の事は仏門に入れたままだったに違いないだろう。
晴信は素直にその笑顔にまっすぐ向き合うことをひどく申し訳なく思いながらも、勝頼の肩を優しくポンと叩いた。
「何を言うておる、今はそなたが私の子だ。たった一人のな。」
「わ…私も小さい頃育てていましたしそんな風に思ってください…!!勝頼さんが嫌じゃなければですが…。」
「はい…!!ありがとうございます…!!」
そう言って嬉しそうに笑った勝頼の背中を見ながら、晴信とこまは顔を見合わせて笑いあった。
本当に彼が二人の子供だったらどれ程良かったか…などど思っても仕方のない事を思いながら、勝頼の少し後ろを二人は並んで歩いた。
「私は微妙だがこまが母なら禰々は喜んでいるだろう。それに私は父といい思い出が無いゆえ親として上手く接してやれているのか分からないな…。」
「大丈夫ですよ、禰々さんは晴信さんのことも大好きでしたよ。それに…晴信さんには立派な父上がいたじゃないですか。」
「え…?」
「板垣さんと、甘利さんが。」
こまのその言葉と久しぶりに思い起こした二人の顔に、晴信はふっと頬を緩めた。
「そうだな……板垣と甘利が…あちらで禰々にうまく言うておいてくれるだろう。だがしかし向こうに着いたら色んな人間から説教をされそうで嫌だな…はは…ゴホッ…ゴホッ……!!!!」
「晴信さん!!大丈夫ですか!?」
「ああ、すまぬ…大丈夫だ。」
咳き込みよろけた晴信を支えるようにこまが駆け寄ると、晴信は息を整え笑ってみせた。
あれから懸命な看病と治療もむなしく、晴信の体は以前よりずっとずっと悪くなっていっていた。
「勝頼さんは…晴信さんの病のことを知っているんですか…?」
「いや…まだ……あいつに今そんな重荷を背負わせるには早すぎる。家臣の中にもあいつが諏訪の息子であることに不満を持っている者もまだ多い、もう少し…時間がいるんだ……なのに……くそ……!!」
「は…晴信さ……」
「信繁…………なぜ死んだ……お前さえいてくれれば…………!!!!」
「晴信さん……。」
「勝頼にはああ言ったが……そういまだに思ってしまう私は、やはり弱いな……。」
晴信はそう言うと、ひどく握りしめた拳を地面に叩きつけた。
だがその力は、以前のように石を砕き割るような力は残っていなかった。
どれだけ時が過ぎようとも、信繁のいなくなった穴は今も晴信にのしかかったまま。そして武田家自体も信繁の穴で確実に均衡を失いつつあった。
信繁が亡くなってからは春乃はまたふさぎこむようになり、部屋に閉じこもった。
千代女は今まで以上に最前線で仕事をするようになり、武田家にはあまり姿を見せなくなった。
いくら代わりの人間で埋めようとも、人望の厚かった信繁の代わりは誰も中々務まらず、
次第に心の離れていく者、新しく入った者を受け入れられないものが後を絶たなかった。
「行こう……こま、勝頼に気づかれてしまう……。」
「………晴信さん。」
「ん…?」
「あ…いえ…なんでもありません…。」
もうすぐ晴信との別れは確実にやってきてしまう。
そして武田家は武田勝頼に継がれ、晴信が愛し守った武田家も滅亡してしまう。
そう思うと、こまは決して言ってはいけない言葉が口から零れ落ちそうになるのを、
ぐっと堪え、飲み込んだ……。
.