ブリキの歴史覚帳

□第十五話 武田信玄
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あの会談から数週間後、取り決めどおり北条から甲斐へ姫君の輿入れが行われた。







氏康の姫君への溺愛ぶりを示すように輿入れの行列の人数は数千人に及び、その豪華できらびやかな行列は甲斐の人々を驚かせた。


だが輿入れした姫の春乃はその可憐な容姿に似合わず、父氏康によく似た一筋縄ではいかない難儀な性格をしていたのであった…。







ー…トントン…



「あのー…そろそろ部屋から出たらどうっすか〜?いい天気っすよ?」

「わらわのことは放っておいてと欲しいと言っておるのじゃ!!!!」


「でもそうは言っても…」

「しつこいのじゃーーーー!!!!」








「の…信繁さん…大丈夫ですか?」


「ははは〜…なんか禰々を思い出すっす…お手上げです。」



信繁がそう言って困った笑顔を浮かべた先は、北条から輿入れしたばかりの春乃が引きこもっている部屋。

甲斐に来てからずっとこの調子で皆と馴染もうとしない春乃に、さすがの信繁も為す術なしといった様子だった。



「全く…放っといたらよろしいやろ、子供じゃあるまいし。腹が減ったらどんな意地っ張りかて出てきますわ。」

「千代女さん…。」


「…そうはいかないっすよ…他国から一人やってきて心細いのは当たり前っす。それを俺が見捨てるわけには……一応夫婦になったんっすから。」


「………あら、もう夫気取りとはおみそれしましたわ。」

「千代女……。」


「………。」



千代女はそう言うと、困ったような顔を浮かべる信繁を明らかに敵意を持った目でちらりと見やりその場を去っていった。

つい先日越後に行った時とは全く違う二人の雰囲気に、この政略結婚を機に何かがあったのだろうということは容易に想像ができた。



「信繁さん…千代女さんと何か…。」


「大丈夫っすなんでもないっすよ!!千代女が俺に冷たいのは小さい頃から変わんないんっすから!それよりも今はこっちをなんとかしないと…」


「あ…そういえば信繁さん、晴信さんが軍議があるって探してましたので後は私に任せて下さい!」

「そうっすか?助かるっす、じゃあお願いします!」



信繁がそう言って部屋の前を離れると、こまは一人静かになった戸に向き直った。

去って行った千代女のことが気にならないといえば嘘になるが、今はこの状況を改善することが先決とこまは持ってきていたコスメポーチを取り出し準備を始めたのだった。





ー…ドサッ!!!!






「よし…さあさあ今日は特別早い者勝ちですよ〜!!」

「こま様…こちらは何を…?」


「はい!!化粧に爪紅にお好きなものを!!晴信さんに許可を貰ってるので休憩がてら綺麗になっちゃって下さい!!」


「本当によろしいのですか!?きゃー!!どれにしようかしら!!」

「待って待って私もよ!!!!」



そう言うと、こまのきらびやかで可愛らしい化粧道具に女中たちが我先にと群がり始めた。

一人一人に化粧や爪紅を施したり使い方を教えていると、こまの周りにはあっという間に嬉しそうに笑顔を浮かべた女たちの人だかりができていた。





ー…キャーキャー


「うるさいのう……一体なんじゃ…この声は…。」


「きゃ〜信じられない程に綺麗ですわ!!私一度やって頂きたかったんです…!!」

「本当に!見てくださいなこの爪、花が咲いたようで自分の手を見るたびに嬉しくなってまいります!!」



「な……!!綺麗じゃ……。」



こまの作り出した人だかりの騒がしさに、何事かと春乃も思わず部屋から顔を出していた。

そしてそこから離れる女中たちの手に施された見たこともない美しい爪紅や化粧に、春乃の目はあっという間に奪われていた。



「そなた…そ…それは一体何をやっておるのじゃ?」

「はい、化粧と爪紅を…ネイルアートって言うんですよ!!やってみますか?」


「よ…良いのか?で…では…頼む…。」

「おまかせ下さい!!」



そう言うと、春乃はためらいながらも嬉しそうにこまの前に座り手を差し出した。

あの頃の禰々と同じ歳くらいだろうか、差し出されたまだ幼さの残るその手を取ると、こまは張り切って目を見張る程のネイルアートを施してみせた。



「…はい!!出来上がりました!!」

「この文様は……相模の寄木細工の…!?」


「はい、とってもきれいな文様だったので取り入れてみました。」


「……!!」






出来上がった春乃の爪には、相模の名産で有名な寄木細工によく見られる文様が桜とともにあしらわれていた。

その懐かしい故郷の文様に、春乃は息をするのも忘れるほどにただただ自分の爪に見惚れていた。



「まさか甲斐で相模のことを思い出せるなんて思わなかったのじゃ…。相模のことなどもう、口にしてはならぬものかと…」

「そんな訳ないですよ!!晴信さんも信繁さんもとってもお優しい方です、そんなことで怒ったりしません。故郷の話、たくさんしてあげて下さい!!」


「そう…なのか…?」

「……はい、勿論です!!」


「そうか……そなたの様な者がおって良かった…ありがとう。」

「…!!」



そう言う春乃の手は、ほんの少しだけ小刻みに震えていた。

たった一人敵国に嫁ぎ寂しく辛く思わないはずはない。禰々のように嫁いだ先を愛しく思えるようになればと、こまは精一杯の笑顔を春乃に向けたのだった。







ー…パタン…



「信繁〜どうよその後あの姫サマとは?」


「あー…はは、前途多難っす…。なかなか部屋から出てきてさえくれないっすよ…。」

「うっわ〜…たまらねーなあ。」


「うーむ…あの氏康の娘、一筋縄ではいくまいか…」



軍議を終え部屋から出てきた皆は、馴染もうとしないと噂の北条の姫君に興味津々な様子で信繁に尋ねた。

困り果てた信繁に晴信も頭を悩ませていると、廊下の先でわいわいと賑やかな声が聞こえ一同は足を止めた。



「だがしかしこのままでは困ったなあ……ん?」


「おい信繁、あれってあの姫様じゃねーの?」

「……へ?」




ー…ワイワイ…



「次は…次はこちらの色もお願いしたいのじゃ!!そしてその次は…」

「春乃様の爪とても美しいですね!!私もぜひこれを!!」

「そうであろう!!これは我が相模の伝統の文様なのじゃ!!皆も旅の際には寄木細工を買って帰るとよいぞ!!」


「ちょっ…ちょっと待って下さい手が…手がプルプルしてきました…。」

「しっかりするのじゃこれくらいでだらしがないぞ〜!!」








晴信達が驚き目を向けた先には、部屋から出てきてすっかり楽しそうにこまと話す春乃の姿があった。

先程まであんなにかたくなに部屋を出てこなかった春乃がたった数時間で打ち解けた姿に、晴信達は感心したように頷いた。




「さすがだな…こまは人の心を溶かす天才だ、いつも感心させられる。」

「本当っすね…。」







「確かに、あの勘助があっさりほだされてたもんなー。」

「っすねー。」


「なっ…!!ほだされてなどいない!!」


「何…!?ほだされたのか…!?」

「ほだされておりません!!」




ー…パタパタ…


「あっ!!晴信さん信繁さん!!話は終わりましたか?」


「ああ、女中たちが世話になったな。」

「いえいえとんでもないです!私も元気貰いましたから!!」



こま達のそばに晴信達が近寄ると、その中に信繁の姿を見つけた春乃はハッとバツが悪そうに顔をそむけた。



「元気、出たみたいっすね。」

「……。」

「ん…?その爪の文様、寄木細工の…綺麗っすね!!」


「ほ…本当か…!?」

「本当っす!!」








信繁が春乃の爪を褒めると、春乃はぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。

その瞬間、春乃は初めてまじまじと信繁の顔を見たようでふいとまた顔を背けたものの、その空気には先程までの拒絶の色は見られなかった。



「はは…良かったな…では早速今夜歓迎の宴をもうけようか……ん?」

「……。」


「千代女…?」



その瞬間、晴信は皆の輪に入らず少し距離を置いて信繁を見つめる千代女の姿を見た。

千代女はそのまま声をかける間もなく姿を消したのだが、その無感情にも見える瞳には明らかに暗い色が映し出されていて晴信も思わず声をかけることが出来なかった。



「いや〜でもほんと良かったっす〜こまさんのおかげっすね!!」

「そうじゃな…って、ん……?今、なんと申したのじゃ?」


「へ…?だから"こまさんのおかげ"…って…」



「"こま"………?」

「「???」」



春乃は信繁からこまの名前を聞くと、みるみるうちに顔色を変えた。そしてこまをキッと睨みつけると、一同が予想だにしない言葉を吐き捨てた。



「わらわはこまは…こまは大っ嫌いじゃ!!その名前、聞きとうない!!」

「えええええええーーーー!?」







「部屋に戻る!!」


ー…バターン!!!!!!!



「「・・・・。」」




「……え?えーっと?……なんで?」


「心、全然溶かせてねーじゃねえか。」

「は…ははは…」

「さすが氏康の娘…一筋縄ではいかぬか…!!」




突然の不可解な春乃の行動にこまをはじめ一同は呆気にとられていた。

なんの心当たりもなく明らかに名前を聞いて態度を変えた春乃に、一人残されたこまはただただ首を傾げるばかりであった…。





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