+*長編*+

□井星之巫女―チチリボシノミコ―〔参〕
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漲る力に、眠りの時間は終えたと告げられるかの如く意識を起こされ、華音は瞳を開けた。


紅南国宮殿の一室の天井をぼんやりと見つめるその瞳は、朱雀を象徴する朱色。

ゆっくりと身体を起こす華音に倣い、揺れる髪にも変化が現れていた。

これまで茶色に染まっていた髪は、まるで光の粒子で形成されているかの如く、きらきらと光の反射を生み出す…
強いて言うなら銀色か――絹の糸を思い起こさせるもの。


“備わる最大の力が具現化し、今の華音のこの容姿を作り出している”。

華音の身に起きている現象は、正しくそれそのものかもしれない。


床へと足を着けて立ち上がれば、白衣に緋袴の装いに草色で独特の文様が描かれている半透明の羽織布が加えられる。

一歩一歩を踏み出す足元には、真っ白な足袋に銀糸が織り込まれた草履。

そして最後に華音の装いとして足されたのは、横髪に細い鎖が螺旋状に巻き付くようにして先を伸ばしている金の冠だった。


それらを当然の装いだと言わんばかりに、華音は背筋を伸ばしただただ前方を見据えて、あるがままの姿で宮殿の回廊を渡り歩く。

時折すれ違う宮殿の者たちがはっと目を見張る様子を見せるも、華音の視線は微動だにしない。


衣装の摩擦音と頭頂部を覆う冠から発せられる金属が奏でる音とを響かせながら辿り着いた、宮殿の主要部ともなろう謁見の間に繋がる扉の前。

その先へと進むため、歩みを更に進めた。






**§**




「……華音…さん…?」



何かとてつもない大きな力の源が近づいてくる…そんな感覚に不意に襲われた井宿や他七星士らの傍ら、美朱がぽつりとその名を零した。

西廊国より急ぎ戻ってきた紅南国内で、これまでの事とこれからの事を話し合おうと華音を欠いた面々で星宿の下に集っていた謁見の間に、
彼女はその姿を見せた。



「…井宿?」



静々と歩んでくる彼女を目にした井宿の身体は、咄嗟に…だが素直な流れで突き動いた。

太極山において太一君の下、三年という年月を掛けて鍛錬した身だからこそ分かる“彼女の高貴さ”に、面を取り去った上で頭を垂れずにはいられなかった。

今までの彼女との歩みさえもが失礼に値するものだったのではないかという一抹の不安にも駆られて、冷や汗までもが滲み出る。



「…あなた様に働いた数々のご無礼…どうかお許し願います」

「頭をお上げ下さいませ、井宿様。井宿様が私自身の気をお護り下さった事で成り立つこの力にございます。
私が井宿様をお咎めするような事柄は何一つとしてございません」



腕へ触れられ、下から顔を覗き込むようにしながら微笑まれては、敬意を払い続けたままいるというわけにもいかず、ゆっくりと姿勢を直す。

その自分の動きを見届けていたらしい華音は、満足そうに微笑みを深くして井宿から離れた。



「陛下」



華音の足は星宿の前で止まり、そのまま床に膝をつく。

星宿の視線が華音に向けられる中、華音が静かに口を開いた。



「私には…巫女様や、陛下も含み入れました七星士様方のように、御国を護るという使命はございません。ですが、巫女と七星士が国をどのように護り、
どのように導くか…その“史の断片”を、寸分たりとも違える事なきよう、後に語り伝える為にも、実在の目として見届ける事こそが私たち――
“時空の巫女”の使命です。私は“二人の巫女の歩み”を見届ける事となります故、“異例の状況下”が必要となりましょう」

「…異例の状況下、とは?」



星宿からの問いかけに、敬意をはらうために垂れていた上半身を起こし、華音の指先がす…と上へと向けられる。



「空〔そら〕」

「空?」

「西廊国の地で眠りにつく時に、紅南国の空を見たのです。国や世界の上に広がりゆく天空は…何もかもを見届ける為に、
最も相応しい場所でありましょう。私はこれから其処に身を置きます」

「…待ってっ…!」



穏やかな口調で語る華音の言葉に、美朱から焦りを含んだ声が上げられた。



「天空って…華音さん、死んじゃうわけじゃないんだよねっ?」



美朱の方へと華音の顔が向けられ、変わらず微笑みを浮かべて彼女は答える。



「生命在るこの身で、です」

「…うん」

「巫女様。家族のように私をお慕い下さいました事、とても嬉しく感じておりました。ありがとうございます」

「華音、さん…」

「巫女様の事も、これまでのように見守らせて頂きます」

「うん…お母さんみたいに傍で寄り添ってくれた…あたしの方こそありがとう。大好きだよ、華音さん」



強く抱きつくように、美朱の手が華音の衣装を握りしめる。

そんな美朱の身体を、華音もまた、慈しむようにそっと抱きしめた。



「――華音!私も華音と行きます…!」

「…どわぁっ!?い、いきなし女が出てきよった…?!」

「娘娘…いや、“真白”なのだ」

「…ましろ?」

「華音の傍に専属でついている女神とも言える」



翼宿が驚いたのも無理もない。

唐突に姿を現し、飛びのく翼宿の横を通り過ぎたその存在は、幼子の装いではなく、女人の姿で華音の隣に並ぶ。



「ありがとうございます、真白。とても心強いです」

「…華音…。……不安…?…そんな顔してます…」

「……そう…ですね…」



華音の瞳が井宿を捉えた。

一度は井宿から離れた彼女は、再び井宿の前に立つ。



「……井宿様……」



多くを言葉にせず、名を呼ぶだけの彼女の名を、井宿もまた呼ぼうとした。

だが、そうしようとするよりも早く、華音の手が井宿の肩近くに触れ―――…。

柔らかな感触が井宿の唇に重なった。



「――…全てを見届けて戻りました暁には…聞いて頂きたい事がございます…。待っていて下さいますか?」

「…オイラも…伝えたい事がある。だから待っているのだ」



肩に置かれる華音の左手を取り、その手の甲へ口づけを落とす。

すると彼女は、顔を俯かせ気味にしながら花が綻ぶように笑んだ。



「あの時と同じ…井宿様の結界が無くなろうとも…今の私ならば、大丈夫…」



自らを奮い立たせるようにそう呟いて、真白の傍らへと戻る華音。

華音が発する独特の言の葉を残し、華音と真白は、眩いほどの白き光の中へと消えていった。






**§**




ヒュオオォォォ―――…。

高度のある場所に身を置く華音の耳に、風のうねり抜けていく音が響く。

身体は光の珠に囲われる内にあるが、それでも華音の心は冷たい風に晒されているようなものだった。


雲間から見える地上の光景。

人間一人一人の影は認識出来なくとも、二つの国の勢力がぶつかり合っている様はよく見える。



「朱雀の力は封印されてしまいましたか…」

「…華音の力で少しでも倶東からの侵略を防ぐのは…無理、ね?」

「そうですね…。お力添えをしたくとも…私には何も……」



――…リィ…ン…。

風の音に混じり、微かに鈴の音が響いたような気がして、視線を彷徨わせる。



「華音?」

「…っ…!」



同じ感覚を味わうのは三度目――否、四度目だった。



「……軫…宿様…」



消える“軫”の文字が頭の中を掠めてゆくに伴い、華音の瞳から涙が溢れ、頬を…顎を伝い落ちていく。



「…あなた様がいなくなっては…あの子はどうなります……」

「…華音…」

「軫宿様だけではありません…。一つ一つの生命が…こんなにも脆く…儚く散っていく…」



朱雀の巫女と青龍の巫女が降り立っている紅南国と倶東国を中心に、幾つもの生命の灯が次々と消え去っていく現状に悲しみを抱かずにはいられない。


華音が落とす涙の雫たちは、空気の内には溶け込まず、地上に降り注ぐ光の雨となり―――…




――地上で身を置く者たちの元へ、静かに降り落ち始めた。



「……彼女の涙…なのに…温かい、な…。華音…ありがとう……」



空に向かって伸ばされた軫宿の手が、力なく落ちる。



「ニャーオ―――…」

「…軫…宿」



朱雀七星士の仲間、井宿に看取られて、軫宿は息を引き取った。



「…何だ…この光は」

「紅南に降り注ぐ光…まさか、お前ら…朱雀以外にも妖かしの類の力を持ってるのか…!?」

「何?!適当な言いがかりをつけるな!」



軫宿から離れた井宿は、剣を構えて口論を始める倶東の兵士と紅南の兵士の傍らに佇み、素顔の瞳から流れ出る悲しみを拭う事もしないまま言葉を放つ。



「…この光に込められる祈りも想いも分からないだと?ふざけるな。これは敵も味方も関係ない…失われてゆく尊い命たちに捧げられる涙だ。
彼女の純真な思いを無駄にする事は俺が許さない!双方共に退け!!」

「…井宿、様…」

「……くっ…」



兵士たちの手に握られた剣が力なく地に向かって下ろされる様子を見やりながら、井宿は力が抜けたように膝を折る。



「…すまない、華音…。…君の思いを護りきる事が出来ない……すまないっ…」



天から降り落ちてくる華音の温かな涙を一身に受け、井宿の唇からは悔しさと謝罪の言葉しか漏れていかなかった。

そんな井宿の手元へ、ニャァー…と、擦り寄ってくる温もりが在り、その頭をそっと撫でる。



「お前の主を送るから…その前に…お別れをしておいで…」

「…ニーィ……」



頭を擡げて静々と離れていく猫の背中を、井宿も哀しみの底に立ち、ただただやるせない思いで見やっていた。




「…華音…」



涙を流せども流せども。

滾々と湧き出てくる涙。

井宿がそうしていたように、華音もまた、流れ出る悲しみに身をまかせながらも、御神の前で祈りを捧げる時のように静かに手を合わせ、
目を瞑り、地上の人々へと思いを寄せる。




軫宿の御魂を送ったばかりだというのに…。

井宿の前で、また一つの生命が消えようとしていた。

戦いの最前線の場であるという事も相まってか、この時はその者の周りを囲う者も多く、翼宿の存在も井宿と共に在った。

心宿と刺し違えた事で深手を負った生命の上にも、白い光の慈雨は悲しくも温かく天より降り注ぐ。



「…華音……美朱…」

「…華音が…泣いとる…」



星宿が空に向かい伸ばした手の先へと、翼宿が視線を動かした。



「温かい……。美朱…どうか幸せ、に―――…」

「…あかん、ですやろ…っ。星宿様まで逝ってしもうてどないすんねんっ…。…陛下――…っ!」

「幻狼…」

「陛下っ」

「…陛下!」



翼宿が咄嗟に掴んだ紅南国の主の手は、翼宿に支えられていても力なく重く沈み込んでいった。
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