メゾン・ド・ソレイユBOOK

□寂
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『お湯が出なくなった』


――ある日、夜


そう言ってシャワーキャップに洗面器にアヒルを持ってやってきたのは隣人の名無子で、

俺の部屋の風呂を借りたいのだと言う。


それは一大事だし、貸してやりたい気は山々なんだが、



「それって、お前が俺ん家の風呂に入るってことだよな?」


『うん。ダメ?』




いや、ダメじゃねぇ。つか嬉しい、…じゃない!嬉しくねぇよ!なんつーか、アレだよ。これから先俺は風呂入る度に、あぁこの風呂に名無子も入ったんだよな、とか一々想像しちまいそうで…、って俺は何考えてやがんだ!変態か!いや、変態じゃねぇ。俺は断じて変態じゃねぇ。




「ってオイ人の話聞いてんのか!」

『ん?』


俺が一人心の中で葛藤している脇を抜けて、俺の部屋に勝手に上がり込んだ名無子は同じ間取りの俺の部屋を慣れたように風呂場へと一直線に向かっていった。


「ったく。仕方ねぇな。さっさと済ませろよ」


俺はガシガシと頭を掻いて、ぶっきらぼうにそう言いアイツに風呂場を明け渡した。














ザーッ…‥、


シャワーの水音が部屋まで響いて、何もすることのない俺はただただその音に聞き入っていて、


キュッ、


シャワーが止まった音を聞いて、今髪洗ってんのかなとか、そんなこと考えて…… 


ない!考えてねぇぞ俺は!そうだ、宿題が出てたんだった。宿題をやろう、そうしよう。


普段宿題なんかやってったことのない俺だが、そんなことは関係ねぇ。思い立ったが何とかだ。


俺は鞄から数学の問題集を引っ張りだし、今まで開いた形跡のないまっさらなそれを適当にめくったが、何ページが宿題として出されたかなんて覚えていない俺は、ただただ捲られるページに目線を這わせていた。















ザーッ…‥、



「……………、」




そうしてるうちにまたシャワーの音が聞こえ、俺の意識はまた風呂場へと持っていかれてしまった。



「だーッ!イライラする!」


俺は問題集を床に投げ出し、ついでに俺自身も床に寝転がった。


何だか最近、俺はアイツのことが気になって仕方がない。


学校にいても、家に帰っても、壁一つ挟んだ向こうにはアイツがいて、

何かをしていて、何かを話していて、何かを想っていて、

俺はただひたすらそんな壁の向こうのアイツに想いを廻らせている。


そんな最近の俺の行動に理由をつけるなら、それは…
















ホームシックだ。


そうだ。ホームシックだ。あぁ!やっとわかった!アイツは幽の飼ってた猫に似てんだ。だからどうも気になっちまうんだな。これで納得がいった。そうとわかれば、今週末にでも家に帰ってみるかな。かれこれ1ヶ月くらい経つわけだしな。家が恋しくもなるわけだ。幽の顔も見たいしな。


「よし、決まりだ」


『何が?』


「ぉ、わッ!!あがってたのかよ!」


俺が寝転んでいたのとはテーブルを挟んで向こう側に膝を抱えて小さく座っていた名無子は、グレーのスエット姿に肩にタオルをかけて髪は水分で重たくなっていた。




『お風呂、ありがとう』


ニカリと笑ったアイツの笑顔に、俺は一瞬フリーズする。


こいつはたまに、ふいに満面の笑顔を見せる。

いつも眠そうな、ダルそうな、不機嫌そうな顔をしている名無子だが、

たまに見せるその笑顔は、底抜けな明るさを放っていて、それはまるで太陽みたいで、

いつもふいにやってくるその瞬間、俺はその笑顔に全てを奪われてしまう。





「…気にすんな」


体を起こして胡坐をかいた俺は、アイツから目を反らせながらポリポリと頬を掻いた。


『ねぇ、静雄』

「何だよ」


普段なら用が済んだ途端部屋を出ていく名無子なのだが、なぜだか今日はまだ自分の部屋に帰る気配がない。


『あのさぁ、』


抱えていた膝を床について、四つん這いになって俺の方に近寄ってくる名無子。


ほら、そうしてみると尚更猫みてぇじゃねぇか。こいつは独尊丸だ。唯我独尊丸だ。あぁ、そうだ。こいつは幽の猫で、だから別にドキドキする必要はなくて、風呂上がりの匂いがしたって別に何ともないんだが、そんなに近寄られると流石に少し、変な気に…、なるわけねぇだろ猫なんだから、なッ、ちょっと、オイッ!




ぴとり、





「な、何してんだよ」


アイツは俺のすぐ隣まで這ってくると、そこにまた膝を立てて座り、俺の肩に頭を預けて身を寄せてきた。


『いいじゃん、少し』


名無子の意図するところが全くわからない俺は全神経を名無子がくっついている左半身に集中しながら、体を強ばらせてじっとしていた。



『おばあちゃん、早く帰ってこないかなぁ』



あぁ、こいつも寂しかったのか。

体を動かさないように横目で盗み見れば、アイツは伏せた視線をどこへ向けるでもなく、いや、たぶんそれは遠い病院にいる祖母へと向けられているのだろう。

まつ毛なげぇなぁ、なんて別に思ったりしてねぇ。してねぇ。




「お前のばあちゃんなら、すぐ元気になんだろ。つか元気すぎて入院したようなもんじゃねぇか。お前が元気で待ってねぇと、逆にばあちゃんに心配されんぞ?」







ポンポン、







右手でぎこちなく、その濡れた頭を撫でた。


なんか、そうしたくなった。


俺の手のひらに収まってしまうような、小さな頭。

離れていても感じるが、こうやって俺の隣にいると、こいつの細さや小ささが際立って、今にも壊してしまいそうで、少し恐くなる。

でも逆に、もっと触ってみたいなんて思う自分もいる。


俺は壊れ物を扱うように、優しく優しくその頭を撫で続けた。








「寂しくなったらいつでも言えよ。肩くれぇ、貸してやるからよ」









照れくさくて、俺は鼻をすするフリをしてその酸っぱい空気をごまかした。







『……………………、』








ありがとう、


んな言葉を期待していたわけじゃねぇが、いつまでも返答のないこの沈黙は何なんだ、俺なんかマズイこと言ったか?


俺はまた体を動かさないように斜め下に視線を向けた途端、


コテン、とアイツが頭から胡坐をかいていた俺の太ももに転げ落ちた。


『…zzz…zzz…』


「…何でコイツはこんなにいつでもどこでも寝れるんだよ」


俺はため息混じりに、今さっき気恥ずかしさを感じてた自分を悔いて、でも、自分の膝で可愛く寝息を立てる名無子にどことなく愛しさを感じていた。


俺はしばらくこいつをそのまま起こさずに、俺の気が済むまでその半乾きの冷たい髪を撫で続けた。




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