捧げ物
□過去編
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これは俺が“篠崎凛桜”という人物に出会う前のつまらない物語。
俺は子供の頃から、年上の女性と夜。
──その中でも新月の夜が嫌いだった。
その理由は至って単純で
”母親の影や過去のトラウマを思い出すから”
俺は産まれた時から女手一つで母親に育てられた為、父親にはこれまで一度も会ったことがない。
これは後に知った話だが、両親は所詮デキ婚だった。
父親は何人も愛人を作っている様などうしようもないクズ野郎で。そんな父親は母親が俺を産んだ直後、家を出て行ったきり二度とこの家には帰って来なかった。
…きっと今でも愛人の家を転々としているのだろう。
その為、母親は一人で必死に俺を育てた。
──始めの頃は
俺が成長するに連れて突然母親から虐待を受ける様になり、それも日に日に回数が増え内容も段々とエスカレートしていった。最初は怒鳴られるだけだったものが、次第に殴られる様になり。
外側から扉に鍵をかけられ1日中部屋に閉じ込められた時もあれば、食事を丸1日貰えない日が1週間の内に何度もあったりと内容は様々。
食事を丸1日貰えなかった挙句、真冬のベランダに夜の間ずっと出された時は本気で死ぬかと思った。
母親がこれらの行動を行う要因。
それは父親に対する恨みや、仕事や育児のストレス等様々で。行動に移すタイミングもバラバラだった。だが、今改めて考えると一番の要因はきっと俺の顔だったのだろう。
ある時、母親が“あの子の顔が段々とあの人に似てきた。ふとした瞬間の表情なんて特に”と零しているのを聞いたことがあった。
正直父親の素行を知っている今となっては、あんな奴に似ているなんて全く嬉しくない。
……それでも当時の母親からしたら、きっとこの顔が追い詰める一番の要因だったのだろう。
母親と正面から目なんて合わせ様ものなら
“その目で私を見るな”と近くにあるモノで殴られた。
少しでも母親から殴られる回数を減らしたくて
あの時俺は必死に考えた。
考えて、考えて
考え抜いた結果。
まずは自分の顔があの人の視界に入らない様に髪を伸ばす事にした。そしてこの目であの人を直接見ない様に伊達眼鏡をかけ、本ばかり読む生活に切り替えた。
だがこれらを変えた所で効果なんて、所詮気休め程度でしかなく。いつもと変わらない日々が続いた。
しかしこんな生活もある日
突然呆気なく終わりを告げることとなる。
俺が10歳の時。
その日は新月で、月の出ていない静かで暗い夜だった。
母親よりも先に寝ていた俺は、ふと何かの気配を感じて夜中に突然目を覚まし、そのままおぼつかない足取りで眠気まなこを擦りつつリビングへと向かった。
周囲の家は皆明かりが消えており、外からの音も全く聞こえない。周辺一帯がしんと静まり返っていた。当然そんな時間帯にリビングの電気は消えていたのだが、部屋の中央には何故か誰かの影があった。
“誰か”なんて大げさに言ったものの、この家には俺と母親しかいない。その為影の正体は当然母親なのだが…
──その時はいつもとどこか様子が違った。
俺は咄嗟に扉の影に隠れ様子を伺う。しかし暫く経ってもあの人は動く気配が全くなかった。
ずっと、ただひたすら“ある一点”を見つめ続けているのだ。
奇怪な行動をしている母親に段々と俺は不安になり、普段だったら自分から母親に話しかける事なんてしないのにその時だけは扉の影から出て思わず声をかけていた。
『母さん、どこか体調でも悪いの?』
「あぁ…まだこんな時間まで起きていたの」
その時のあの人の顔は今でも鮮明に覚えている。
俺の声を聞いて振り返った母親の目には全く生気がなく、酷く冷めた目をしていた。
この暗い部屋の中でその不気味な瞳がゆっくりと俺を捕らえた瞬間。金縛りにでもあったかの様に動けなくなる。
「本当にお前は昔から私の思い通りに動いてくれない子よね。大人しく寝ていてくれればすぐに済んだのに」
『……母さん?、、、っその手に持っているものは何?』
──ちがう、いつものあの人と。
普段の様子とも暴力を振るって来る時の様子とも違う。どこか落ち着いているのに、今あの人が纏っている雰囲気はとても冷たくて。
普段とはどこか大きく異なっていた。
咄嗟にその事を察した俺は、母親の顔から視線を逸らし。そして……気づいた。
あの人が右手に持っていた包丁の存在に。
頭でその存在を理解した瞬間、恐怖が体中を駆け巡る。
「あら、もう気づいたの?眼鏡をかけていないから気づかないかと思っていたのだけど。…そう言えばあれは伊達眼鏡だったものね」
──この人に俺は今から殺される。
そう理解した瞬間。
先程母親が何を見ていたのかやっとわかった。あの人がリビングの中央で見ていたのはきっと父親と2人で撮った写真だろう。最期になるからと先程まで目に焼き付けていたのだ。
──早くここから逃げなければ。
頭ではそう理解出来ているのに、その時の俺の足は思う様に全く動いてはくれなかった。
“この人には何をやっても敵わない”
これまでの生活でそう俺の身体が覚えてしまっていた。それに例えこの場から今奇跡的に逃げられたとしても、俺の帰る場所なんてここしかなかった。
結局俺に選択肢なんてない。
あの人は父親だけでなく、親戚にも会わせてくれたことは一度もなかった。俺には助けを求め逃げ込める場所なんて──どこにも存在しない。
『っ………!!!』
それでも責めてもの抵抗として。俺は近くにあった棚に手を伸ばし、置いてあった花瓶やグラス、雑貨などを全部床に落としてあの人の行く手を阻んだ。
こんなもの実際には大した足止めにもならない。そんなのは分かっている。でも、その時はそれ以外抵抗する手段が思い浮かばなかった。
何でもいい、とにかく少しでも時間を稼ぎたかった。
棚にあったモノが床に散らばった直後、一瞬だけこんなに落としたら後片付けが大変だなという考えが過ぎったが、そんな事もう心配する必要もないのだと直ぐにこの考えを捨てる。
「ちっ…、本当に可愛げのない子!そんな事をしても意味がないのだとどうしてわからないの⁉」
暗がりから母親の舌打ちと物を退かす音が聞こえてくる。その直後、暗がりからあの人の顔が浮かび上がった。
その時見えた顔は、先程よりも表情が表れており。その顔は酷く顔を歪められていた。俺は思わずその表情をぼーっと見ていると、突然首に痛みが走る。
『い゛っ…………!?』
──痛い。
突然の鋭い痛みに堪えられず、咄嗟に首を押さえながらその場にうずくまる。押さえた箇所からは温かくぬるりとした何かが流れており、それが自身の血だと気づくのに時間は掛からなかった。
………っ!
痛い、痛い、痛い──!!!
強く傷口を押さえても血は中々止まってくれない。暗がりの為、今自分がどうなっているのかわからないことが更に恐怖を駆り立てる。
「喉元を狙ったつもりだったのだけれど…少し外したかしら?やっぱり暗いと駄目ね」
“大丈夫、今度はちゃんと狙うから”
そう言って母親が再度包丁を振り上げた時。
ピンポーン
突然真夜中のリビングにインターホンの音が響き渡った。
「なっ、何なの?こんな夜中にイタズラなんて聞いたことないわよ!?」
予想していなかった出来事に目の前の母親が狼狽えていると、ほぼ同時に外から扉を叩く音が聞こえてきた。
「おい、こんな夜中に何を騒いでいる!?隣にまで音が聞こえて来たぞ!!!」
「、、、っ、あのジジイ!!こんな時にまで邪魔をして来るなんて!!!」
外から聞こえて来た声は、隣の部屋に住んでいてこの建物を所有するオーナーのおじさんだった。
おじさんは前に俺がベランダの外に出されていた時、偶然見つけて助けてくれた事があり、それ以来何かと俺のことを気にかけてくれる優しい人だ。
「あっ、こら‼っ、、、待ちなさい!!!!」
おじさんの声を聞いた瞬間。先程まで全く動かなかった足が動いた。そのまま母親の制止も聞かず玄関に向かって全力で走る。
走って走って──
痛みなんて忘れ無我夢中で走り、玄関に着いた瞬間外へ飛び出した。
『おじさん助けて!おれっ、まだ…死にたくない!!!』
「葵!?……おいっ、その首の血はどうした‼酷い怪我じゃないか!!?」
家から飛び出した俺は、裸足のままおじさんの元へ駆け寄りそのまま縋りつく。首から血を流した俺が、いきなり玄関から飛び出してきた時。流石のおじさんもぎょっとしていたが、すぐ我に返り瞬時に玄関の扉を閉め警察と救急車を呼んでくれた。
この時の俺は、先程までの恐怖や安堵の涙できっと顔がぐしゃぐしゃだっただろう。
そんな俺をおじさんは自身の服に俺の血が付くのも気にせず、警察の人達が来るまでぎゅっと抱きしめ泣き止むまで頭を撫でてくれた。
あの後は本当にあっという間だった。
俺はすぐに到着した救急車によって病院へ運ばれ、数日間入院する事となった。手術後に何針か縫ったと知らされた時。自分が思っていたよりも深手を負っていたのだと知り流石に驚いた。
入院中も慌しくて。
ゆっくり休める時間なんてあったもんじゃない。
手術後、目が覚めたらすぐに病室にはおじさんや警察の人が来て──。
俺が救急車で運ばれた後のことを教えてくれた。母親は俺が家を飛び出した直後、警察に捕まるのを恐れベランダからすぐに逃げたらしい。だがその逃亡も長くは続かず、結局次の日には近くの駅で逮捕されたのだと説明を受けた。
今回の母親の行動やおじさんの証言、俺の身体に残っている傷や痣等から“俺と母親は一緒に暮らさない方が良い”。そう判断され、傷が治り次第俺は施設へ預けられることとなった。
おじさんからその旨を病室で伝えられた時
ここ数日で色々な事が起こりすぎてあまり実感が沸かなかった。
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「忘れ物とかないか?あったらすぐ取りに戻るが…」
『大丈夫だよおじさん。ここまで送ってくれてありがとう。おれ、もう大丈夫だから』
「そうか、この施設は周辺でも評判の良い所だからそこまで心配はしていないが…。何かあったらいつでも俺の家を頼っていいからな?」
『うん、ありがとう』
俺が施設に入る当日。
おじさんが入り口まで車で送ってくれた。
本当に何から何まで面倒を見てくれて、感謝してもしきれなかった。俺はおじさんにお礼を言って施設の門を潜り、ゆっくりと施設の玄関へ向かって歩いていく。
今日からはここが俺の暮らす家だ。
もう周りに親戚と呼べる人はいなくなってしまったが、これまで母親以外に会ったことはなかった為そこまで悲しいとも思わなかった。
それに今まで殆ど1人で生活をしていた様なものなので、これからの生活にもそこまで不安はない。普段生活していく上で大抵のことは自分でやれる自信があった。
俺がもっと大人だったら
今すぐにでもこのまま1人で世間に出て
誰にも頼らず生きてやるのに
──早く大人になりたかった。
そんな意志とは裏腹に、この時の俺はまだ幼く。1人で生きていくことは到底出来なかった為、施設に入る以外の選択肢は残されていなかった。
それなら施設に入ってる間に今後必要になることは出来るだけ沢山覚えよう。知識は多いに越したことはない。色んな教材とか置いてあったらいいなぁ…。
今後自分が何をやりたいのか考えながら──俺は施設の扉を開いたのだった。