捧げもの
□夢桜 ―出会い―
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風の強い夜でした。
窓辺を舞う花びらに誘われて、私はそっと家を抜け出し、夜の丘に足を運びました。
その丘には、樹齢千年とも言われる桜の大樹があって、毎年圧倒されるほどの桜を咲かせていました。
風に乗って、ハラハラと花びらが流れてきます。
その桜の花びらに混じって、かすかな旋律が流れてきました。
桜の木に向かうに従い、大きくなっていきます。
これは、バイオリンの奏でる音でしょう。
こんな遅い時間に、誰が弾いているのでしょうか。
私は不思議に思い、そっと桜の木に近づいていきました。
音がはっきりと聞こえるようになるにつれ、その音色の美しさが際立つようになりました。
伸びやかな音の広がりは、解き放たれるような清々しさを感じさせ、
それでいてどこか物悲しい弦の震えは、私の心をも震わせたのです。
この音を奏でている方はきっと、繊細で、心の綺麗な方なのだろうと思いました。
そしてもしかしたら、この世界の残酷さの一部を垣間見たことがあるのかもしれない。
私の心に響く音は、そんな危うげな美しさを含んでいました。
やがて、木の幹に寄り添う人の姿が見えました。
私は、その方が私に気づいて演奏を止めてしまわないように、そうっと、そうっと、反対側から近づいてゆきます。
その間も美しい音色が私の心を清く温かな水で満たしてゆくのを感じました。
大きな幹の反対側に辿り着いたとき、バイオリンは穏やかで優しい音を奏でていました。
そっと顔を木の幹から覗かせると、バイオリンを弾いているのは男性です。
年端は、私と同じくらいのようでした。
もっとよくその方を見てみたいと、一歩踏み出すと、足元の小枝が小さな音を立てました。
あれほど気をつけていたのに、自分の粗忽さには本当にがっかりします。
その音を合図に、弓を動かす動作がスッと止みました。
一瞬の静寂が辺りを包み、やがて風が吹き始めると、さわさわと揺れる桜の木の音だけが、この空間を支配していました。
その瞬間、私はもう恋に落ちていたのでしょう。
その方はゆっくりとこちらを振り返りました。
記憶に鮮明なのは、あの方の澄んだ目です。
吸い込まれそうになるくらい奥行きの深い瞳。
その中には、全てを包み込むほどの慈悲と、救いようのない絶望が混在しているように見えました。
ああ、あの旋律は、この方そのものだったのだ。
私は何故だか、泣き出してしまいたいような気持ちになったのです。