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□霧を進みて、鬼ありけり
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「かっ、蟹……!?」
片方の爪を無くした大きな蟹が、ぎょろりと目玉を動かして舟を見下ろす。
船頭の腰から力が抜けていった。
なんだ、この巨大なバケモノは。
言葉を失ったまま、ただただバケモノを眺めるしかない。
もしかして、噂話に出てきた鬼とはこの蟹のことだろうか。
「もうわけわからん……!」
蟹が、大きな足を動かして、川面を揺らす。
今にも舟がひっくり返されそうだ。
「た、たすけて……!」
「すまない。しばしの間、しんぼうしとくれ。……次で片付ける」
船頭の返事を待たず、とん、と、軽く船首を蹴り、男は跳躍する。
大きな蟹の足に飛び降りたかと思えば、殻の上を走り、別の足へと移動する。
男の動きに翻弄された蟹は、ばたばたと身体を動かした。
船の側で行われている攻防が、船頭は恐ろしくて仕方ない。
船は波打った川面に踊らされ、獣に似た咆哮が耳を貫く。
本来の蟹が声を出すところを見たことはないが、ただの生き物が出す声ではないことはわかる。
戦いの行方が気になるという好奇心は、このような状況でも顔を覗かせる。
霧と水飛沫の中を、男はにやにやと笑いながら暴れる足と爪を掻い潜り、蟹の目玉に向かって大きく跳躍する。
持っていた錫杖を、躊躇することなく目玉に突き刺した。
赤ではなく、黒い液体がばしゃばしゃと流れ出す。
へどろの臭いに似た異臭に、船頭はいよいよ思考が追い付かなくなって、意識を手放した。
◆ ◆ ◆
「やはり、耐えられなかったか……。悪いことをしてしまったな」
舟を桟橋にくくりつけ、船頭を担ぎながら男はぼやく。
巻き込むつもりはなかったのだが、結果的には巻き込んでしまった。
霧が晴れ、やや流れが早い川面を男は一瞥した。
「また、黄泉の国の異形が現世に出ていた。どこかで、扉が開いているな……」
出口は有名な岩と神で閉じているが、入り口の方は数が膨大で、無防備になっている箇所もある。
不用意に開けば、黄泉へ封じられている異形が現世へと躍りだし、今日のように人を襲うのだ。
異形を倒せるのは、倒し方を知っている者だけだ。
「忙しくなりそうだな、鬼を狩る者たちよ」
終