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□霧を進みて、鬼ありけり
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 白い漆喰と同じ色をした霧は、人を喰らうという。
 川を渡る小さな舟を漕いでいた船頭は、急にその噂を思い出して身震いした。
 あの噂はどこから出てきたか。考えてはいけないのに考えてしまう。
 確か、船頭仲間と飲んでいた時に、そんな話が出たのだ。
 船頭の一人が、言い出した。

『白い霧には鬼が隠れていて、川を渡る舟を飲み込んでしまう』

『乗っている人間はどうなるのか』と別の船頭が問えば、怪談話を始めた船頭はけらけらと笑いながら『そりゃあ、喰われるに決まってる』と続けた。
 あの船頭の声が鼓膜にこびりついたようで、けらけらとした笑い声が繰り返し頭に響いている。
 今日に限って、視界を覆うのは真っ白な霧。
 夏にしては冷たい空気に、船頭は肌を粟立たせた。
 見える物は自分の舟と、向こう岸へ渡りたいという一人の客(おとこ)。
 黒い袈裟に身の丈ほどもある錫杖。そして、頭に被っている笠。
 きっと、地方から来た坊主か何かなのだろう。
 船頭は客の素性をよく聞かないまま、自分の舟に乗せて川を渡り始めた。
 舟に乗ってから、男は一言も言葉を発していない。
 背を向けられているので、今どのような表情をしているか船頭にはわからない。
 もしかして……。もしかしてこの男は、餌を求める鬼の所へと自分を誘ってはいないだろうか。
 男の身の丈は、船頭の頭一つか、一つ半は高かった。この時代に生きる人間としてはやや高い気がする。
 鬼の類いではないか。本当にこの男を乗せて大丈夫だったのだろうか。
 悪い噂を思い出してから、よくない事ばかり考えてしまう。
 落ち着け、落ち着くんだ。
 今日は偶々霧が出た日で、この男も偶々この日に向こう岸で用があるだけだ。
 ふるふると頭を振り、漕ぐことに集中する。
 きいきいと鼓膜に届くのは、慣れ親しんだ舟を漕ぐ音だ。
 舟は順調に進んでいる。川の流れもいつもと変わらない。大丈夫だ。もうすぐ向こう岸に着く。
 この男を届けたら、丘に上がって霧が晴れるのを待とう。
 霧が晴れれば、怖い事を考えなくて済む。
 そんなことを船頭が思っていると、舟を漕ぐ音に紛れて水が跳ねる音がした。
 びくりと、船頭の肩が上がる。
 なんだろう。魚が跳ねたのだろうか。
 周囲を見渡すが、見えるのは霧と自分の舟だ。

「気にするな」

 船頭の不安を見抜いたかのように、客の男が言い放った。

「気にするな。構わず進め」

「へ、へい……。いや、しかし……」

 漕ぐのを躊躇する船頭に、客の男は続ける。

「【何か】あればこちらで対応する。あなたは……」

 よっこいせと、重たそうに腰を上げ、男は笠を僅かに上げて船頭を見た。

「そのまま、漕げば良い」

 ぴちゃんと、水が跳ねる。
 続いて、ざばざばと水が流れていく音と、ぐるぐると獣が喉を震わせる音が聞こえる。
 客の男は、にやりと口角をつり上げると、錫杖を持ち直して前方に身体を向けた。
 何が起きているのか、船頭にはわからない。
 が、客の男はこの霧の先にあるものが見えているようで、落ち着き払っている。
 ただ漕げば良いと言われても、得たいの知れないものを前にして、普段通り漕げるわけがない。
 一心不乱に漕いでいると、舟の先端が岩に当たった。
 がくんと、舟が大きく揺れる。

「す、すんません……!」

「構わん……丁度良いところに当ててくれた」

 ぐりんと船首が持ち上がり、ひっくり返されそうになる所で、川面へと船底が叩きつけられるようにして戻される。
 船頭は船縁にしがみつくので精一杯で、客の事など気にしてられなかった。
 水しぶきを身体いっぱいに浴びながら、目を開けようと濡れた羽織の袖で顔を拭く。
 滲む視界の中で、船首にあの客が舞い降りる姿が見えた。
 その向こうで、赤い色をした【何か】が、ずずずと音を立てて川に沈んで行く。
 もう一度、袖で目を拭い、滲みが無くなった視界で、前方の様子を視界に入れた。
 硬い甲羅のような物が、川面に浮いている。質感は蟹に似ていたが、人間の大人よりも大きい。
 客の男は船頭に背を向けたまま、錫杖を持ち、川面を見据えている。
 川面が静かになったのはほんの一瞬で、再び波打ち始め、舟が大きく揺れる。
 慌てて、船頭は船縁にしがみつくが、視界に入った【何か】を前にして、大きく声を上げた。

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