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□その重き愛〜カピバラが泣いた日〜
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早口で捲し立てた女は、カピバラを慣れた手つきで腕の中に抱え込む。
成人したカピバラ……しかもじたばたともがいているそれを難なく抱き上げるとは、この女一体何者だ。
アーサーは逃げ出すのをやめて、女に視線を移した。
ゆるやかな波をうつ茶色の髪と、カピバラに真っ直ぐな視線を送る茶色の瞳が視界に入る。
「あ……」
こいつ、知ってる。
アーサーの脳裏に、もう随分前の出来事が浮かんでは過ぎていく。
中庭ある植物園。それを囲むように建つ校舎と厩舎。
昼特有の微睡みに襲われながら開かれた、研究課題の提案と論文の発表。
講壇に立つのは、背筋をしっかりと伸ばして論文を読み上げる女学生。
そんな彼女を、アーサーは渡されていた論文のコピー片手に眺めている。
室内にいるというのに、彼女はアーサーの目には眩しい存在であった。
言葉をなくしたままのアーサーに、突然現れたその女学生『だった』女は、ぱっと表情を明るくさせて挨拶をした。
「お久しぶりです! アーサー! こうしてお会いするのは、国立大学以来でしょうか? 私が誰だかわかります? 同じ学科だった」
「ジェシカ」
「正解です!」
彼女の言葉を遮って答えたアーサーに、女もといジェシカは気を良くしたそうで、太陽よりも眩しい笑みをアーサーに見せる。
逃げる事を諦めたアーサーは、彼女に身を任せることにした。
「……どうして君がここに? 魔法生物の研究をすると言って、郊外にあるその筋の研究所に入所していただろう」
「矢が立ったんですよ。白羽の矢が……」
さすがに疲れたのか、カピバラを抱えたままベッドへと腰を下ろす。
カピバラは彼女の膝の上で寝そべる姿をとることになった
「嫁ぎに来ました」
「弟に?」
「違います。あなたのところに、嫁ぎに来たんですよ」
「僕のところに……? ごめん待って、聞いてない。誰が決めたの? 母上? それとも弟?」
「そうですね……とりあえず言えるのは、色々な人です」
眩しい笑顔を見せたままの彼女は、細い指でカピバラの背中を撫でる。
ちくしょう。悔しいことに、彼女の膝が暖かくて、撫でる手が気持ちよくて、もっと撫でろと思ってしまう。
カピバラがされるがままなのを良いことに、彼女は遠慮なく手を動かした。
「ちょっとは落ち着きましたか? アーサー」
「君、ちょいちょい呼び捨てにするよね」
アーサーが指摘すると、彼女は慌てた様子で口を手で隠す。
「ごめんなさい。ついつい昔の癖で……。でもあなた、様付けとか皇太子呼びされるの嫌いでしょう?」
ジェシカの問いに、今度はアーサーが驚く。
「何で知ってる……?」
彼女はアーサーの言葉にすぐには答えず、カピバラの眉間を指先でつんと弾く。
「何でって、あなた学校で敬称つけて呼ばれるとき、いつもムッとしながら答えてたじゃありませんか」
「眉間にしわが寄ってましたよ。すぐ消してたけど」と笑いながら、カピバラの眉間をつんつんと何度も突っつく。
確かに、敬称をつけて呼ばれるのは嫌だったけど、表情(かお)には極力出さないようにしていたつもりだ。
見透かされていた事実を知り、カピバラは押し黙る。
「だからね、私は学校にいるあなたを呼ぶときは、呼び捨てにするように心掛けていたんです」
気を使われていた。でも、アーサーが嫌がる事を知っていてくれた。
皇太子のアーサーではなく、ただのアーサーを知っていてくれた存在がいた事を知り、急に恥ずかしくなってそっぽを向く。
照れた表情(かお)など、見せてやるものか。
背中を向けたカピバラのそれを、彼女はいつまでも撫で続けている。
「研究所の人たちが、あなたが来なくなってからずっと心配していますよ」
カピバラは答えない。
でも、耳はジェシカに向けられている。
「あなたは確かに人間が苦手で、カピバラになって逃げ出しちゃうような人だけど。でも私、知ってますよ。あなたはとても、動物が好きな人で、それと同じくらい研究も好きな人だって。大学にいた頃。あなたが書いた論文を読むの……私、楽しみにしてたんです。真摯に向き合って書いた物だって伝わって来るから」
カピバラは身じろぎをして、さらに顔を隠した。
「ゆっくりでいいから、一緒に戻りましょう。あなたが居たい世界に」
研究者は、一人でも多い方が良いですから。
「また一緒に、色々な動物を研究しましょう」
彼女の言葉に、カピバラはやはり答えない。
目から流れ落ちる雫が鬱陶しくて、口を開くどころではなかった。
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