本棚
□神様がいない夏
3ページ/4ページ
先ほどまでの緩い空気は一転し、頭上にある晴天とは正反対の重たい空気がたれ込む。
この空気にしてしまったのは千夏だ。
「えっと……あの……。あ、あなたは、夢とかありましたか…………?」
少しでも淀んだ空気を入れ換えたくて、口を開く。
開いてから、この話題は余計に空気を暗くすると気づいた。
大切なものを置いていった人に投げる話題ではない。
やってしまったと、頭を抱える。
忘れてくれと言おうとした時、男が口を開いた。
「あったよ」
「…………!」
答えてくれた事に驚いて、千夏は男を見つめる。
男も千夏を見ると、口角をつり上げた。
「俺の家は農家だったが、俺自身は現在(いま)で言う郵便配達員になりたかったんだ」
「郵便屋さんに…………?」
「手紙には、人の想いが込められている。それを命をかけて届けるんだ。素晴らしい仕事じゃないか」
ふぅっと、一つ息を吐き出すと、男は空に視線を向ける。
見ている先にあるものは、青葉に遮られた夏の空ではなく、云十年も前に置いてきてしまった夢だと、千夏は悟った。
「俺の居た戦地(ばしょ)は、激化するまで本土から手紙が届いていたよ」
手紙を届ける役割を持った人が居て、命をかけて送り先へ届ける。
手紙だけではない。あの頃は、どんな物資も命がけで送っていた。
今の時代では、物流を担うものたちを甘く見る人たちがいるが、物流が途絶えたらどうなるか。少し頭を働かせれば、わかるはずだ。
「毎度毎度、ちゃんと持ってきてすげーなーって思いながら、受け取ってたんだよ。敵戦機と出会した時も、命からがらな状態で持ってきてたな」
当時はざっと血の気の引く話だが、今となっては記憶に残る出来事の一つである。
からからと笑って語る男を、千夏は呆けた表情を見せて聞いていた。
「さぁーてと、そろそろお前の帰る時間だな。あんまり遅くなると、おかーさんとばあちゃんに小言ぶつけられるぞ」
「あ!」
言われて思い出す。
そういえば、今年は曾祖母の新盆だから、帰って来たら飾り付けを手伝うように言われているのだ。
あまり遅くなると、男の言うように小言を漏らされる。
勉強と暑さですり減った精神に悪い意味で小言はよく効く。
ひったくるようにして、隣に置いていた鞄を掴み取り、鳥居の方に向けて駆け出した。
「千夏」
男の声が、千夏を呼び止める。
足を止めて振り返ると、男はにこやかに笑いながら手を軽く上げていた。
「気をつけて帰れよ」
「はーい」
返事をして、再び駆け出す。
鳥居を潜る寸前、二人で座っていたベンチに視線を向ける。
ガタイの良い男の姿は、見当たらなかった。
今日も、あの男の正体はわからず仕舞いだ。
「あらあら、おばあちゃんったら、こんな物を遺してたのね」
家に帰ると、お盆の祭壇を飾る和室の方から母と祖母の楽しげな声がした。
お盆の準備は順調に進んでいるようだ。
千夏が襖(ふすま)の隙間から中を確認していると、気づいた母に手招きされる。
「見て見て、千夏。ひいおばあちゃんが隠し持ってた写真と絵手紙」
「写真……?」
「ひいおじいちゃんの写真よ。一枚も見当たらないと思ったら、おばあちゃん宝箱の中に大事にしまっていたみたいなのよー」
祖母と母の間に、木製の小ぶりな箱が置かれていて、蓋が開いている。
お盆の季節を迎えて、祭壇を作るために、曾祖母が使っていた部屋を片付けていたら、偶然見つけたそうだ。
母が持つ写真と絵手紙を受けとる。
絵手紙は云十年も前のものだ。水に触れたのか、ふやけた痕跡がある。
絵手紙をしばらく眺めた後で、写真に視線を移した。
結婚式の写真と、出兵する直前の写真。
教科書で見たことのある軍服は、穴もあいておらず、糸も解れていない。新品で、生地にも張りがある。
それを見に包んだ男は、しっかりとした体つきで、とても身長が高かった。
写真を撮るのに緊張しているせいか、顔が強張っている。
先ほどまで見ていた、柔らかな笑みとは程遠い。
「色男よねー」
「おばあちゃんがテレビの俳優を見るたびに、『お父さんの方が色男だった』って、言ってたものねえ」
笑い合いながら、母と祖母は作業に戻る。
もうすぐ、レンタル品の祭壇が運ばれてくるのだ。
写真を見たまま黙ってしまっている千夏を、母が呼ぶ。
一瞬間を空けてから、千夏はようやく気を取り戻した。
.