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□霧の社にて、冬はやがて春になる
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 薄暗い田んぼの畦道で、一柱(ひとり)の女神が夕焼けに手を合わせていた。
 形の良い唇を小さく動かして、祓詞を紡ぐ。
 言ノ葉に乗って、川のように背中に流れる桃色の長い髪から、身に着けている小袿から淡い蛍火に似た燐光が現れた。
 ゆるゆると螺旋を描くようにして、蛍火は女神の周囲を舞う。
 夕方の祈りを終えた比売(ひめ)は、合わせていた両手を解いて、息を細く長く吐き出した。蛍火に似た燐光も、空気に溶けるようにして姿を消す。
 祈りを始めた時の空は、地平線に寄り添うようにして橙色に染まっていた。
 が、今は橙色は弱くなり代わりに藍色が空を覆い始めている。
 最近、昼の終わりが早まって来たなと、比売は薄く微笑んだ。
 秋が遠退き、冬に入って行く。
 朝晩の吐き出す息が白く凍りつくようになった。
 移り行く季節の流れは、今年も順調である。
 伯母神の象徴でもある丸い火の玉が出ている時間も短くなり、夜の時間は逆に長くなった。
 夜の国を治める比売の父親は、娘を天上から煌々と照らす時間が増えて、さぞかし上機嫌になっているだろう。
 最も、過保護な父の事だから、比売に何かあれば昼間であっても駆けつけてくる。
 おっと。何もなくても、昼夜問わず様子を見に来ているか。
 様子を見に来ては、比売の傍らを陣取る大きな大きな、それはそれは大きな藍色の山犬と対峙して、鼻息荒く帰って行くのだ。
 可愛い娘が、まさか犬に取られるとは思ってもいなかったのだろう。
 比売も、大きな山犬に心を奪われるとは思っていなかった。
 寒風が、比売の体を撫でるように通りすぎていく。
 風も空気も冷たくなってきた。
 早く丘の上にある社に戻らなければ。共に暮らす、比売の侍女と巫女を兼任する妹と、姉妹の世話と社の管理を一手に引き受ける世話氏が心配してしまう。
 それから、比売を愛してやまない大きな大きな山犬も。
 畦道から腰を上げた比売は、肩からずり落ちかけていた袿を掛けなおす。
 さあ帰ろうと踵を返したところで、丘の方から大きな山犬が駆け下りてくるのが目に入った。

「藍色(あいいろ)!」

 ぱっと顔に花を咲かせて、比売は山犬の名を呼ぶ。
 山犬は一つ大きな吠え声を返し、比売の前で足を急停止させた。
 駆けてきたから息が荒い。舌もぺろんと出てしまっている。
 くすくす笑いをしつつ、比売は藍色の首に腕を回した。

「お迎えありがとう」

 どういたしましてと、山犬の尾が揺らされる。
 藍色の毛は冬毛に換わっている。もさもさもふもふとしていて、いつまででも触っていたい。
 大きな犬の首に顔を押しつけ、頬擦りをする。

「気持ちいいなあー」

「…………」

 気持ち良さそうにする比売を、藍色は嬉しさと困惑が混ざった表情で見つめた。
 自分の冬毛で比売が喜んでくれるのは嬉しい。
 嬉しいけれど外はもう寒い。いつまでも、畦道で寄り添うわけにはいかないだろう。比売の体調が崩れてしまう。季節の変わり目で、ただでさえ気をつけなければならない時なのに。
 人の言葉が話せれば、藍色は比売にこう伝えただろう。
 だがあいにく、藍色は人の言葉は理解出来ても話すことは出来ない。
 早く社に戻ろうと、鼻先で比売の身体を突っついて促す。
 藍色の心境に気づいた比売は、ようやく腕をほどいた。

「もう帰らなきゃだね」

 その通りと、藍色は尻尾をぴしりと振る。
 藍色が迎えに来たとき、比売は必ず背中に乗るよう身体を鼻先で小突かれる。
 今日は鼻先で突かれる前に背中へと移動して、彼の背を撫でた。
 大きな山犬は、比売が乗りやすいように足を折る。
 藍色の脇腹に両足を流すようにして腰をおろすと、山犬は彼女が落ちないようゆっくりと立ち上がり、歩き出した。

「今夜は冷えそうだから、一緒に寝ましょうか」

 夜の帳に包まれる田んぼを眺めながら、比売は言う。
 いい提案だと、藍色は何度も尻尾を大きく振った。

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