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□鰭を奪われた人魚
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 気づいたらそこは、慣れ親しんだ海の中ではなく、滅多に寄りつかない渚だった。
 頬の下にある砂が、波にさらわれていく。
 どうやら、自分はうつ伏せで横たわっているらしい。
 橙色に染まる濡れた視界の中で、何があったのか思いだそうとする。
 否。やはりやめよう。思い出したくない。
 尾っぽの先にある痛みに気づいて、思考を強制停止させた。
 息を一つ大きく吐き出し、身をよじって自身の下半身を確認する。
 腰から下は、魚の尾だ。腰まで伸びた桜貝に似た色の髪と同じ色の尾っぽがある。
 が、先端にあるべき鰭(ひれ)が無くなっていた。
 無くなっているというより、奪われたと言った方が正しいか。
 鰭と尾っぽを切断する形で、刃の跡が残っている。
 そこから絶えず血が流れていて、意識を朦朧とさせた。
 尾っぽから上半身へと、視線を移す。
 上半身は人間のものだ。
 二本の腕と、首と、頭。
 服と呼ばれる物は一切身に付けておらず、素肌である。
 羞恥心は込み上げて来なかった。
 それ以上に、泳げなくなってしまったという悲しさの方が心を埋め尽くした。
 鰭がなければ、上手に泳げない。
 深い深い海の底にある自分の住処まで戻れない。
 かといって、この下半身では陸にもあがれない。
 このまま、自分はどうなってしまうのだろう。
 海の水に触れる限りでは、ここは自分の知らない海岸だ。
 自分を助けてくれる知り合いはいないだろう。
 このまま血を流し続けて、誰にも知られぬままひっそりと死んでいくのだろうか。
 いやだなあ、それは。
 凄く寂しいではないか。

「どうしよう…………」

 じわりと、目の奥が熱くなる。
 横たわったまま、ぎゅっと目を閉じると、ぶっきらぼうな男の人の声が頭上から聞こえた。




end



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