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□死期檻々
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『では、ご機嫌よう』という言葉を最後に一方的に切られた。
鎌首をもたげた蛇が、再び眠りにつく様が思い浮かぶ。
苦い表情を隠しもせずに出し、通話時間が表示されている画面を睨んだ。
「“あの婆……”」
この状況で、その頼みを持ってくるとは。
全てを見透かされている気がして、胸の奥が気持ち悪い。
もやつく思いを体外に出したくて、大きく息を吐き出した。
携帯の時計で時刻を確認すれば、あと数分で夜勤の終業時間だった。
待受画面に戻った携帯を懐に仕舞う。
退勤時刻を記入しに、事務室へ向かおうかと一歩踏み出した時、橙色が視界を掠めた。
瞼を瞬かせ、足を止める。
東向きの窓から、光が射し込んでいる。
橙色。
一瞬夕焼けかと思ったが、今は日の沈む時間ではない。
今は、日が出でる時間。これは朝焼けだ。
東の空に目を向ければ、白んでいた場所に赤く燃える球体が、じわじわと這い出ていた。
全てを熱く温かく照らし包み込む、日の光。
その光りを、母親のようだと例える者もいるそうだ。
「母親か……」
確かにあいつも、母親みたいな部分がある。
普段は甘えたがりなのに、ふとした拍子にルプスの母親に似た影を見せて、胸を締め付けて来るのだ。
突き放すべきではなかった。
突き放せば、世界は藍色の帳に覆われ、あたたかな橙色に包まれることなく、凍えたまま。
口の中で、彼女の名前を紡ぐ。
「 」
偽りの名を。
「 」
真の名を。
音に出さず、紡ぐ。
背を向けた彼女は、今はどんな表情をして、どういう思いを抱えながら、会わない日々を過ごしているだろうか。
問いかけても、心の中の彼女は振り向いてくれない。
その代わりに、橙色の輝きが強さを増した。
→夕焼け編