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□死期檻々
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「明日、イチコは模擬戦ね」
夜勤から寮の部屋に戻って来たカフェオレが、出勤前のイチコに伝える。
タイツを履きながら、イチコは首を傾げた。
「模擬戦……?」
「月に一度、看守は囚人が脱走した時を想定した訓練に参加してもらうんだ。全員一斉には無理だから、何日か日程を用意して都合のいい日を選んで参加するんだけど」
「イチコは初めて参加するから、私が組んで来ちゃった」と、カフェオレは悪戯が成功した時の笑みを見せて続ける。
カフェオレも、明日は休みのはずだが、休日返上で参加するようだ。
なんだか、とても楽しそうにしている。
組んだことは構わないが、なぜその訓練が模擬戦と呼ばれてるのだろうか。
イチコがその理由を知ることになるのは、実際に参加してからだった。
翌日の天気は、訓練日和とは言えないものだった。
監獄の敷地内にある森の中を、枝という枝を飛び移りながら駆け抜けていたイチコは、ふと足を止めて頭上を見上げる。
木々に茂る葉の隙間から、黒に近い灰色の雲に覆われた空が見える。
朝方には、強い雨が降っていた。
昼を過ぎた今、雨はやんでいるが日中にも関わらず、森の中は薄暗い雰囲気だ。
一足早く、夕方になってしまったような空気である。
耳を覆うヘッドフォン越しから耳を済ませば、遠くの方から乾いた音がひっきりなしに響いている。
これは、銃声だ。
囚人役の看守を狙う、無慈悲な音。
耳に着けたヘッドフォン型の無線から、同じチームの看守が脱落したという審判の声が流れた。
口元にはマイクがあるが、イチコは報告する事がないのでまだ使っていない。
空から、自身の後方へ視線を移す。
後方に追っ手が迫る気配はなかった。
息を一つ吐いてから、イチコは枝から地面に下りる。
「容赦ないなあ」
相手チームにいるカフェオレの顔を思い出しながら、イチコは苦笑いする。
囚人役の看守を追いかけるのは、カフェオレを含む中堅クラスの看守たちだ。
相手チームに並ぶ顔ぶれを見て、今年度から入ったばかりという若い看守たちで構成された囚人役たちは、頬をひきつらせた。
主力の集まりではないか。
カフェオレに始まり、ミュリエルにラズにマオにルプスにノーモにオルトスに……。
見覚えのある主力の先輩たちが並び談笑する姿を、この時ほど恐ろしいと思ったことはない。
これは確実に、新人いびり以外のなにものでもないだろう。
始まる前から、囚人役たちの思いは一致していたのだった。
戦意喪失気味の後輩たちを、なぜかこのチームの隊長役に任命されたベテラン組とも言えるボムがケラケラと笑って見ていたのであった。
囚人役のスタート地点で、彼女は言い放った。
『まあまあ、そんな湿気た面するなって。先輩の胸借りるつもりで暴れて来いよ!囚人役は森から看守棟まで一人でも逃げ切れば勝ちなんだからさあ!』
『因みに、俺はゆっくり行くから。よろしくな!』とだけ言い残して、ボムは森の中に消えて行った。
スタートの合図であるブザーが鳴ったのはその後だ。
十分程前にあったやり取りを思いだして、思わずため息をこぼしてしまう。
案の定、若手だらけの囚人役は、始まった直後から看守役に捕獲されていた。
半分近い若手が捕まっただろうか。あと、逃げているのは誰だろう。
考え始めた矢先に、また囚人役の若手が捕まった報告が耳に入る。
本当に、手加減なしだ。制限時間の三十分を前に殲滅させられそう。
否、向こうはそのつもりで動いているはずだ。
ベテランの集まりが若手を一人でも取り逃がすなんて真似はしないし、もししたら、沽券に関わる。
「看守棟まで、一人でも逃げ切れたら勝ちか……」
葉の隙間から見えるどんよりと曇る空を仰いでから、ぬかるんだ地面に視線を移す。
イチコが残した足跡が残っている。
靴底には、泥が付着していることだろう。
ひやりとした汗が、背中を伝う。
「しまった」と、心の中で苦いものと共に吐き出した。