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□死期檻々
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「あっつい……」
潜っていた布団から這い出て、カーテンに覆われた窓に歩み寄る。
まだ四月の下旬なのだが、この季節にしては珍しく今宵は暖かい空気が国中を包み、寝苦しい夜を迎えていた。
あと一週間もしないうちに、暦は皐月……五月へと変わる。
今晩、カフェオレは夜勤だ。寮の部屋にはイチコだけである。
イチコは入ったばかりなので夜勤はまだやったことがないが、来月の半ばくらいからやらされるだろうと、カフェオレから言われていた。
先日行われたテストの結果(赤毛の兄を間違ってぶっ飛ばしてしまったあのテストだ)、イチコは囚人の面倒を見つつ、時々摘発任務や裁判所と監獄の間を行き来する囚人護送の任務を担当する組に配属された。
カフェオレから名簿を見せてもらったら、知り合いの大多数はこの組だった。
他にも、拷問専門の組や諜報任務専門の組もあるみたいだが、そちらに配属されなくて良かったと思う。
締め切っていた窓を開けて、温く流れる夜風に顔を当てる。
温くても、汗ばんでいた肌に風が当たると心地よかった。
知らないうちに胸にたまっていた息を深く吐き出す。
気心知れた人が沢山いるのは心強い。が、同時につきあい方がよくわからない人もいる。
「(あの人も、いるんだよなあ……)」
赤毛の兄の弟が。
あの訓練から幾日も経ったが、言葉は一度も交わしてない。
そのかわり、刺すような視線は幾度か飛んできた。
大体は、イチコが囚人の対応に失敗したときか、マオと手合わせをしている時だ。
何か文句があるなら、直接言ってくればいいのにと思う。
お兄さんは、悪い人じゃないと言っていたけど。
「……人のこと言えないか」
イチコもあの人に文句があるのに、口には出さずこうして思うだけにとどめているのだから。
ひとしきり風に当たったところで、窓を閉めた。
寝苦しかったせいか、身体の方も汗をかいてしまっている。
目も冴えてしまったし、大浴場に行って汗を流してこよう。
時計を確認すると、丁度日付が変わった頃だった。
自身の今の姿を確認する。
太もも半ばまでしかない寝間着のパンツに、甚平の上を身に付けた格好だ。
甚平の丈が長いので、見る人によっては下を履いてないように見える。
この時間なら出歩く人も、大浴場にいる人も少ないだろうし、このままでも大丈夫だろう。
バスタオルと諸々必要なものを手提げに詰めて、イチコは部屋を出た。
夜の看守寮は、思っていた以上に闇が濃かった。
窓は黒い暗幕が張られたみたいで、外の様子は確認できない。
唯一ある灯りは、通路に申し訳程度に灯されたランプの火だけだ。
日中、人が行き来する廊下なのに今は誰もいなくて、不思議な感じだ。
大浴場までの道のりは、こんなにも物寂しいものだっただろうか。
ぺたぺたとスリッパの音を響かせながら、歩みを進める。
幽霊が出たらどうしよう。
ふと、そんな事を考えてしまった。
闇に包まれた通路の先から。
あの黒い窓に何か写ったら。
考え出したら止まらなくなって、じわじわと恐怖が広がり始める。
とっても小さい時、道場に兄のサガルがまだいた頃。
お化けが怖いって泣いていた時に、幽霊がいない場所なんてないって笑いながら言われたけど、笑い事じゃない。
成仏しろよ。何の為にあの世があるのか。お坊さんの存在意義とはなんなのか。
そもそも、お化けが看守だらけの監獄にいてたまるか。
ああそうだとも、お化けなんてここにはいないのだ。
兄は昔から適当なことばかり言うから、鵜呑みにしては駄目だ。
ぺたぺたと歩みを早め、なるべく窓を見ないように通路を進む。
大浴場までの道は半分まで進んだ。残り半分。
このまま誰にも会わず、何事もなく辿り着きたい。
そう願った時に限って、聞きたくない物音を聞くのだ。
ランプの灯りで薄くなった闇に包まれた通路の奥から、足音がする。
その音は、少しずつイチコに近づいていた。
イチコはピタリと足を止めて、通路の壁に身体を埋める勢いで身を寄せる。
運が良かったのか、頭上にはランプがある。
歩みを進めればいいのに足音の持ち主が気になって、動けなかった。
ここは看守が足を踏み入れる場だ。足音も看守のものだろうけど、問題はそれが誰かと言うことだ。
色々な人物を想像して、対応を確認する。
足音が徐々に大きくなり、イチコの鼓膜を震わせる。
息を殺して、ランプの下に相手が入るのを待つ。
大きな影が、細めた視界の中でゆらりと揺れた。
足音が止まる。
通路の床に伸びた影を認めて、幽霊ではなかったと安堵すると同時に、無愛想な声音が通路に響いた。