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□死期檻々
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 今宵の月は、一段と大きく見えた。
 寂れた屋上の金網に背を預けて、男はそれを見上げる。
 紫色の瞳に月の光が入り込み、ちらちらと輝いている。
 乱雑に切られた黒い髪が、緩い風に撫でられ、ふわふわと揺れた。
 最近は、熱のこもった寝苦しい夜が続いていたが、今日は気分の良い夜である。
 柳の葉を思い出させる金の刺繍を闇に溶け込む生地に施した着流しが、一層そう思わせているのかもしれない。
 かぐや姫が現れそうな、静かで妖しげな夜。
 のんびりと月見を楽しんでいた男の耳に、地を這う唸り声が耳に届いた。
 男は頭上の月から視線をおろし、目の先にある“者”を見る。
 血濡れの男が、そこに居た。
 男は屋上の扉にめり込む形で座り込み、身体中には細い針が、両腕は広げられ、手のひらと扉を縫い付けるようにクナイが刺されていた。腹からはおびただしい血が流れ、男の座る場所を濡らしている。
 血濡れになっていなければ、男は育ちの良い服を身に纏っていた事がわかっただろう。
 お金をかけて作った貴族の服も、今はぼろ雑巾と変わりなかった。
 月に向けていた時よりも細く鋭い視線で、その男を射抜く。

「悪いねぇ、お貴族様。俺ァあんたに恨みはないんだが、依頼が来ちまってねぇ……」

 懐から、数枚の紙が纏められた依頼書と赤いインクのペンを取りだし、今にも息絶えそうな男の写真と履歴書を開く。
 斜めの線を左上から一本、右上から一本、重ねる形で描いた。
 依頼書を懐に戻し、ついでと言わんばかりに煙管を取り出す。
 煙管から煙をたゆらせながら、着流しの男は口を開いた。

「まっ、これもビジネスなんで。…………送り火くらいは焚いてやらァ」

 月を目指して揺れる煙に、視線を向ける。
 血濡れの男からは、いつの間にか声が消えていた。




 男の遺体は、依頼人が業者に頼んで処理すると聞いているので、男は後始末をせずその場から離れる。
 さて、次の依頼は何だっただろうか。
 懐から、先ほどとは別の、まだ新しい折り目のついた書類を取り出す。
 標的の詳細と写真が貼られた紙を見て、男は顔に弧を描いた。

「フランソワ・ジャルジェ…………コウテイか…………」

 貴族の間では、外の国と手広く商売をしている貿易人として有名だが、一部の界隈では政府に反逆する者としての知名度の方が高い。
 富を得るため、コウテイを利用しようと考える貴族も多いが、目の上のたんこぶと思う奴もいる。
 依頼人は後者のようだ。

「遂にきたか」

 男は楽しげに呟いた。





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