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□死期檻々
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「マーガ先輩……?」
故郷にある亡き両親の墓参りをする為、叔母が経営する民宿へと宿泊した日の事だ。
風呂の洗い場から脱衣場へと上がったカフェオレは、静まり返った部屋の様子に不安を覚える。
一人では外出届を受理出来ないと言われ(護衛をつけるなら許可すると言われ)、心を許す男性の先輩、マーガレットと一緒に里帰りしたのだが、その先輩から返事がない。
風呂と部屋の仕切りは、薄い扉一枚だけだ。物音があれば、耳に入る。
が、今はその物音すら耳に届いてこない。
いつもなら、名前を呼べば直ぐ言葉を返してくれるのに。
胸が急に重たくなった気がして、バスタオル越しに両手で胸を押さえる。
これは、嫌な予感というやつだろうか。
墓参りを済ませ、叔母が経営するこの民宿に着いてから部屋に行くまでの間に多々あったから、自分でも知らない所で緊張しているのだろうか。
「こんな事に巻き込んでしまうなんて思わなかったからなあ…………」
叔母さんが先輩を見て「ぜひうちの姪を嫁に」と持ちかけたり、民宿の仕事を手伝わせたり。
他にも、カフェオレの許嫁と名乗る男が、マーガレットを彼氏だと勝手に決めつけて、やれ射撃勝負だ、ポーカー勝負だ。挙げ句の果てには、一対一の殴り合いだと勝負を吹っ掛けてきて。
結局、先輩は全ての勝負を受け、あっさりと勝っていた。
貴重な有給を使って一緒に来てもらったのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになるカフェオレである。
身体も濡れた髪を拭くのもそこそこに、カフェオレ叔母が用意した下着と白いチュニックシャツとショートパンツを身につけて、脱衣場から出た。
部屋を見渡せば、こじんまりとしたソファーに、大きな巨体が転がっている。
無理やり横になったのか。長い手足が窮屈そうに曲げられていた。
銀色の髪が、枕にしているクッションに散らばっている。
目は閉ざされ、規則正しい呼吸をしていた。
先ほど、名前を呼んだ先輩に間違いない。どうやら、眠っているようだ。
長距離の移動に、気遣いにと、疲れがどっと溢れ出てしまったのだろう。
カフェオレはマーガレットが眠るソファーの傍らに腰をおろし、寝顔をじっと見やる。
「きれい……」
男性の寝顔をまじまじと見た事は片手の指よりも少ないが、綺麗な寝顔だと思った。
閉ざされた瞼の奥には黒い瞳があって、真っ直ぐな視線をカフェオレに向ける。
薄紅色の唇は、いつも優しい言葉をかけてくれる。
ずっと見つめていると、吸い込まれそうになる。
「だめだ……」
だめだ。カフェオレ。
今すぐ、視線をそらしなさい。
引き寄せられるように、顔が彼の顔に近づく。
視線をそらしなさいと、誰かが訴える。
そらさないと吸い込まれてしまう。
吸い込まれたら、後戻りは出来ない。
『視線をそらしなさい。そらすのよ』と、警鐘が鳴り響く。
これ以上進めば、元の関係に戻れなくなる。
濡れた銀髪の毛先から雫が零れ、ソファーのカバーに吸いとられる。
マーガレットの顔は、直ぐそこだ。鼻の頭と頭が触れそうなほど近い。
だめだ。吸い込まれる。
進めばもう、戻れない。
「せん、ぱい……」
それはそれでいいではないかと、カフェオレは警鐘を消すように目を閉ざした。
end