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□死期檻々
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 囚人の脱走を知らせる警報の音が、監獄中に響き渡る。
 慌ただしく石畳を叩く靴の音と、扉という扉を閉める音。
 鍵を掛ける音が周囲で鳴る中、一人の女看守が囚人室が並ぶ通路で、呑気にコーヒー牛乳を啜っていた。
 啜る時に後ろへ傾けた頭から、銀髪の毛も一房、二房と一緒に流れる。

「……苦い」

 幼い少女に似た声音が、苦味を含んで口から零れた。
 眉間にしわが寄る。
 砂糖が足りない。
 ミルクが足りない。
 とにかく、甘さが足りない。
 このコーヒー牛乳を作ったのは誰だったか。

 “ーー粛正決定。”

 瞳に歪みが生じ、カップを傾けて中身を床に捨て出した。
 たらたらと流れ落ちる茶色の液体を眺めていると、通路の向こう側からひたひたと走る足音が耳に届いた。

「裸足か……」

 看守の者ではない。
 看守は黒い靴を必ず履いている。
 桃色混じりの紫の目を据わらせつつ、足音がする通路の先へ視線を移す。
 一人の囚人が、単独で走って来ていた。
 鬼ごっこでもしているつもりなのか、囚人の顔には余裕がある。
 女看守は一つ息を吐き出し、持っていたカップを囚人の足下に向けて投げつけた。
 カップの割れる音と破片に驚いたのか、囚人が直前で足を止め、隙を見せる。
 そこを見逃さず、女は太ももに忍ばせていた針を抜き、囚人に向けて放つ。
 針に気付いた囚人は後ろへ跳躍して避ける。
 それを待っていたかのように、女が瞬き一つで背後へと移動していた。

「粛、正」

 右足を軸に、左足を横一文字に振るう。
 靴の踵が囚人のわき腹にねじ込むのを感じた。
 吹っ飛ばされた囚人は、囚人室の鉄格子を破り壁に凹みをつけてようやく停止する。
 鉄格子を破壊された部屋の主(しゅうじん)は、感心した様子で倒れた囚人を見つめていた。

「わーお。さすがは、仕込みのカフェオレちゃん」

 カフェオレと呼ばれた女看守は、平然とした様子で壊れた鉄格子を潜る。

「……壊してしまった。すまない8369」

「いいのいいの。ワタシとカフェオレちゃんの仲じゃない」

 格子なんて、直ぐに取り替えて貰えるし。

 けらけらと笑いながら、囚人は答える。
 優雅に流れる黄色の髪が、囚人が笑う度に揺れた。

「それにしても、カフェオレちゃん。今日のパンツは黒なのね。意外にセクシー」

 その問いに、カフェオレは瞼を幾度か瞬かせた後、囚人の見た物を察してスカートの裾に触れた。
 ひらりと、スカートのフリルを広げて見せる。

「残念だが、これは見せパンだ。看守とは言え淑女たるもの、したたかさは大事だと看守長さまが仰っていた」

 今度は、囚人の方が目を瞬かせる番だった。

「それ、お淑やかの間違いじゃないのー?」

「そうとも言う」

 裾を戻し、伸びている囚人に視線を向ける。
 目覚める気配はない。
 直に、他の看守も集まって来るだろう。
 耳をすませば、複数の靴音が騒がしく鳴り響いている。

「しばらくの間、騒々しくなる。我慢されよ」

「構わないわよ。静かすぎるより賑やかな方がいいわ。それよりこの囚人……」

 目にかかった髪を鬱陶しそうに払い、囚人は言葉を続ける。
 見るからに、楽しげな表情をして。

「どうやって抜け出したのかしら?手を貸すお優しい看守さんがいるとは思えないけど」

「細かい事は私も知らされていない。看守長さまが逃がすなと仰せられた。私はそれに従っただけだ」

「従順ねぇ。尊敬しちゃう!」

「あなたも、作業の時に駄々をこねず、粛々と進めたらどうだ?あまりお喋りが過ぎると、うるさい連中に目をつけられるぞ」

「はいはい、気をつけるわ」

 その会話を最後にして、カフェオレは踵を返す。
 壊れた鉄格子を潜り抜けたと同時に、他の看守たちが現場へと集まっていた。
 伸びている囚人を回収するのに、そう時間はかからないだろう。
 鉄格子が直るまでの間、囚人8369は別の部屋へ移動となるはずだ。
 すれ違い様に同僚たちへ小さく頭を下げ、カフェオレは看守長室へ向かう。
 囚人を取り押さえたとはいえ、設備を壊し、余計な仕事を増やしたのはカフェオレの失態だ。
 そして、囚人に投げつけたカップ。あれは、看守長から頂いた物だった。
 看守全員に配られたお土産の品だったけれど、カフェオレは気に入って使っていたのだ。
 それを、ついうっかり投げてしまった。
 事の経緯とその他諸々を報告せねばならない。

「看守長さまになんと詫びようか……」




end
(To be continued.)
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