短編

□カレー < 君
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半ば先輩に引きずられるような状態で走りつづける事数分。
わき目もふらずに猛進していた先輩がぴたりと制止した。
普段生活している学校内とはいえ、ついていくことに必死だった私には何処をどう走っていたのか皆目見当もつかず、ここがどこなのか把握できていなかった。
そのまま傍らの教室の戸をがらりと開け、先輩が中へ入っていく。
あまりにも堂々とした先輩の態度に、ふと入口上の札を見上げれば、そこは七松先輩の教室だった。
教室内には誰もおらず、放課後だから当たり前かと先輩に続いて中へと足を進めた。

「滝、こっちこっち」

窓際一番後ろの席についた先輩が此方に来いと手招きをする。
素直にそちらへ向かい先輩の隣の席へ腰掛ければ、なにやら机の中を漁りだした先輩が、あった!と言って一枚のプリントを取り出した。

「これなんだけど、滝分かる?」

おずおずと先輩が差し出したプリントを覗き込むと、どうやら現国の問題のようだった。
しかしよくよく問題を見てみれば、『鬼の霍乱』『青天の霹靂』などといった慣用句の一部が穴埋めになっており、その脇に意味が添えてある、至って簡単なプリントで。
これが一体どうしたんだと首を捻っていると、何を勘違いしたのか七松先輩はがくりと肩を落とした。

「やっぱりだめだよなあ…」
「あの、七松先輩?」
「滝なら頭が良いから、二つ上の問題でももしかしたらと思ったんだけど…」
「いえ、分かりますけど、これ位でしたら…」
「だよなあ、滝なら分かるよな、これ位……。え?分かるの!?」

勢いよく頭を上げた先輩に気圧されながら、こくりと頷く。
先程とは打って変わって晴れやかな表情をした先輩は、いそいそと私の方へ机を寄せた。

「良かったあ、滝夜叉丸に頼んで。みんな分からないからって帰ってしまったんだ!薄情だと思わない?」

長次まで私を見捨ててさあ、と口を尖らせる先輩に、分からないからではなく呆れて帰ってしまったんだと言える程、私の性格も曲がってはいない。
はははと乾いた笑いを浮かべながら、先輩が分からないと言った例のプリントに取りかかった。

「で、これは何のプリントですか?宿題?」
「そう、授業中にちょっと居眠りしてたからって私だけ。これ提出してからでないと帰っちゃだめだってさ」

居眠りの罰がこの程度とは、いくらなんでも甘すぎる。
他の生徒なら喜んで受ける程度の罰にここまで苦しめられるとは、流石いけどんな七松先輩だ。
先生も大分手加減して問題を作ったのだろう。

「では、さっさと終わらせてしまいましょう」
「でも教科書には載ってなかったぞ…」
「大丈夫ですよ、私が全部分かりますから。ちょっと狡いですけど、先輩は部活がありますもんね」
「ありがと滝。次はちゃんと頑張るから!」

何よりも部活命な先輩は、勿論今日も部活に行く気でいるのだろう。
ならなるべく早く終わらせて、沢山やらせてあげたい。先輩にはいつかきちんと学ばせますからと、担当の教師に心の中で約束し、一問ずつ先輩に答えを教えた。

「で、最後は『(光陰)矢の如し』です」
「こ う い ん …と、よし!終わったあ!」

握り締めていたシャーペンを放り出し、万歳にも似た伸びをした先輩は、やっと部活へ行けるとにこにこ顔で笑っている。
私の教室に駆け込んで来た時とは別人のような姿に、つい笑いが漏れた。

「ありがとな、滝夜叉丸!」
「いえ、お安い御用です。プリント、提出し忘れないで下さいね」
「分かった!」
「今度、ちゃんと慣用句の勉強もしますからね」
「……分かった」

渋々頷く先輩に約束ですよと釘を差し、部活に行くよう促した。
嬉しそうに鞄とプリントを握り締め教室から駆け出した先輩を見送り、さて私も帰ろうかと席をたつ。
綾部は無事に帰れただろうかと思案しながら教室の戸へ手を伸ばした時、廊下側から戸が開けられた。

「わっ!!…七松先輩?」

その先にいたのはさっき出て行った筈の七松先輩で。
なぜか引き返してきた先輩に、忘れ物でもあったのかとぽかんとその顔を凝視した。

「私、一つだけ慣用句知ってたよ!」
「は、はあ……」
「私、インドの飯より滝が好き!」
「はあ!?」

驚き目を丸くする私の頭を一度撫でると、じゃあなと微笑んで先輩は駆けて行った。
一人取り残された私はしばし呆然としていたが、意味を理解した途端にへなへなとその場に崩れてしまった。

「……それを言うなら、『三度の飯より』でしょうが」

折角の大それた告白だったのに、全く格好がつかないなんて。
それを言い間違えるところが彼らしいと言えば彼らしいのだけれど。
面と向かって告げられた間違いだらけの告白に、やはりもう少し勉強をしてもらわねばと一抹の不安を感じながら。
頬の熱と緩みが収まるまで、もう少し、このままで。
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