BLEACH部屋

□菊花咲乱
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その日の夜

寝付かれなくて床を抜け出した乱菊は廊下ですすり泣きを耳にする。

珍しいことではない。
遊廓で流される涙が夜に染み渡り、やがてさやかに絶えていくのを聞くのは。

ただその声は馴染みの新米女朗、雛森のものだった。


「どうしたのよ雛森。」

襖越しに囁くと、泣き声はぴたっと止んだ。
向こうで必死に涙を拭っているような気配がする。

雛森は初見世を三日後に控えた身である。
初見世とは女朗がデビューを飾る舞台であり、競りで最も高値を付けた客の相手をすることになる。

耳をそばだてていると戸口から床に戻っていく衣擦れの音がした。

ため息をついて乱菊も立ち上がった。



自分は幸運だった。

思い返せば初見世の日。

恐ろしかった。
相手がお金持ちの年寄りでもいい家の人間でも、誰だろうと同じにただただ恐ろしかった。

だから店の者には相手の名を明かさないよう頼み込んだ。

夜には布団の上に正座した乱菊が猫のような眼を伏せて障子を睨んでいた。

怪物が来るんだ、と思った。
真っ黒な妖怪が人の姿を借りてやってくる。
そう考えればきっと現実は少しましな筈。

だけどやっぱり怖い。
お願い、来ないで。


開いた襖から光が射してくる。


お願い‥



「乱菊」



着物の裾から足が見えた。
掌から顔を上げた乱菊を見下ろしていたのはギンだった。


「なんで‥」


まだ身体が震えていた。

嘘だ
こんなお伽話みたいな現実は到底ありえない。

知ってるんだ。
一度売られてしまった女の子はもう女の子じゃなくなるの。

階段脇から幾たびも見つめた姉女朗たちのもの悲しい立ち姿。

何年か経ったある日、大門の向こうから幼なじみだった男がやって来ることもある。
顔を合わせたらお互い気付かないフリをするか、わざとらしく身の上を笑い合ったりなんかする。

あたしはどっちも嫌よ。



「僕の名前、覚えとる?」

不安そうに傾げた顔を見て、狡い奴だと思った。

忘れる訳ないじゃない。
初めて出会った時に交わした言葉。

あんまり変な名前だから忘れることも出来ない。




「‥遅うなってすまんかったな。」



馬鹿言わないで
来るなんて思ってなかったんだから。




「ギン」




延ばした腕が届くより前に抱きしめられていた。

離さないで
何があっても二度と離さないでと

あたしはとうとう夜の闇に身を躍らせた。




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