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□晴樹の場合
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「あ、でも無傷なのかぁ。さっすが武闘派だね!ハルキン」

正面のデスクに座っていたその音葉は心底感心したようにそう言うと、にっこりと笑ってまるでお疲れさまと言わんばかりの気軽さでタオルを差し出してくる。相変わらず笹沼にはその神経が信じられないが、これが日常茶飯事になってしまっている今ではもはや『コイツは人間の理解の及ばない宇宙人なのだ』と割り切る他に付き合っていく術はないと思う。

「変な名前で呼ぶんじゃねぇよクソ女。お前は俺を殺す気か…!」
「大丈夫だよ、今生きてるじゃん」
「なんだその根拠。人の生死を結果論で済ますな!」
「あーあ、それにしても残念だったなぁ…。今回の『春風ちゃん』は自信作だったのに…」
「話聞けよ!つかあれの何処が春風なんだよ!最後とか火炎放射出てただろうが!残念そうに言うな…!」

仕方なくそのタオルを受け取ってお茶も飲みほす。貰ったものは粗末にしないのが信条だ。
しかし濡れた服まではどうしようもないので、とりあえず一番上のスーツだけ脱ぐとネクタイを外してさっさとシャワールームに向かった。ちなみに此処にシャワールームなんてものがあるのは確実に音葉のトラップのせいだった。毎朝毎朝、笹沼が出勤する度に起こる悲劇に最初は社長も副社長も止めるように注意をしていたのだが、いくら止めても効果がなかったので遂に特別処置として設置されたのだ。しかし笹沼としてはそんな特別処置を取る前にコイツを解雇してほしいと常に思っている。

「あれ?そういえば朝ごはんは?」
「あれだけ言ってまだ用意すると思ってたのかよ!死ね!今すぐ電車にでも轢かれて自爆しろ、むしろ裂けろ!砕け散れ!!」

追い討ちをかけるように飛んできた能天気な声に思いつく限りの罵詈雑言を叫び返して、今度こそシャワールームの扉を閉める。そしてバタン、と騒がしい音を立てて扉が閉まるのと同時に、ようやくやっと笹沼の心の中に平穏が舞い戻った。

本当に長かった。あぁしかし今日もこれで無事に出勤できたのだ。
きっとたったそれだけのことにこれほど安堵と喜びを感じる人間は世の中にそれほど多くないに違いない。

とにもかくにも早く温まろうと糊の付いたシャツの胸ポケットからすっかり湿気てしまった煙草を取り出して、笹沼は滅多に吸わないので別にいいと言えばいいのだが、やはり丸々一箱分近く残っていたそれを惜しいことをしたと思わないわけではない――、シャツの第一ボタンに手を掛ける。
笹沼が滅多に吸わないのに比べ、上司でありこの会社の副社長でもある反田誠はかなりのヘビースモーカーだった。この煙草は勤務中、その反田に貰ったものだ。もしも丸ごと無駄にしたと知られれば、それなりに残念がるのだろう。

しかしそこまで思ったところで、重大なことを忘れていたのを思い出して笹沼は反射的にシャワールームを飛び出した。

フロアに出て自分のデスクに飛びつくと、そこの掛けてあった上着のポケットを探る。シャワールームに消えて、直ぐに戻ってきた笹沼を見て、向かいのデスクに座っていた音葉が不思議そうに首を傾げた。

「どしたの?ハルキン、そんな慌てて…」
「携帯だ、携帯!お前がしつこいから途中から電源切ったまんまだった!」
「あー、だからかぁ。反田からこっちに連絡入ってきたの」
「は………?」

まるで遠い昔を思い出すように、さりげなくぽつりと音葉が漏らしたその言葉に、笹沼の全思考が一瞬音を立てて停止した。

「詳しいことは傍受される可能性があるから会社の回線では話せないってさ。だから連絡取れるようになり次第、折り返しを――」
「そういうことはさっさと言え!この阿呆ッ!!」

傍受されるのを危険視するということは確実に何か重要な内容だ。しかも直ぐに折り返せ、ときたら事は急を要す。

焦って携帯の電源を入れ、反田にかける。それと同時にオフィスから飛びだそうとした瞬間、後ろから音葉の冷静な声が響いた。

「――で、折り返し入れる前に伝言だけど、『絶対オフィスから動くな、焦って飛び出したりするな、黙って大人しくそこにいろ』だって」
「………なんだそれ」

まるでこちらの行動を予期したようなその伝言に思わず膝から力が抜けた。今日は朝から本当に調子が狂ってばかりいる。

とにもかくにも指示通りに携帯をコールしていると、カタカタとパソコンのキーボードを鳴らしながら、音葉はまたもやなんでもないことのようにそれを告げた。

「あ、それと今日は慈雨が帰ってくるから」
「は?なんだそれ」

初耳だ。
慈雨、とは言わずもがな、この会社の社員の一人で、最近はずっと北に点在する麻薬密売組織に潜入調査していた特殊工作員だ。
笹沼もどちらかというと外に出てそういう調査を受け持つことのほうが多いのだが、どちらかというともっと体当たり的なものの方が多いのが常で、潜入調査のようなものは大体が慈雨が担当していた。その為、彼がこのオフィスに帰ってくることはそれ相応に珍しいことだった。

「そうなのか?」
「うん、そんで今日社長も反田も外出てていないから」

それも初耳だ。
思わず睨むように視線をやると、それに気づいた音葉は全く悪びれる様子もなく「だって」と口を尖らせる。

「朝の電話で伝えようとしたのに、晴樹が最後まで聞かないで切っちゃうんだもん」
「おま…、それ俺のせいかよ」

絶対違うだろう。しかしこちらがそれ以上口を開く前に、ブツ、と音がして携帯が繋がって、一気に意識がそちらに逸れた。

「すまん、反田!電源落としてて…」

開口一番、笹沼は謝罪を口にする。しかし電話口から返ってきたのは怒鳴り声や溜息ではなく、予想に反して切羽詰まったような声だった。

『そんなことは今はどうでもいい』

その声に、とてつもなく嫌な予感がして、笹沼は背筋を凍らせた。


反田はこの会社では一番のやり手だ。常に冷静沈着で判断力と行動力に富み、――そんな反田が、
いつも冷静で判断力を失わないその声が、珍しく焦って冷静な判断力を失っているように聞こえた。
こんな声は、今までに一度だって聞いたことがない。

「何が――、」

案の定、こちらが促し切るよりも前に、その絶望的な声が鼓膜を振動させた。




『西だ、組織に――社長が攫われた』




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