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□晴樹の場合
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それはもう無意識と言ってもいいだろう。

少なくとも、ここに来てからもう半年以上経つがドアノブを握る時に中の気配を探るというこの条件反射とも言うべき自己防衛を、笹沼晴樹は一度たりとも怠ったことはなかった。

その理由は言わずもがな。
詰まるところ、それが自分の生死に直結しているからだ。


【災厄ト携帯ト元凶ト日常】


高層ビルが群居する閑静、と言う言葉とは縁がないような。

決して煩いとか混雑しているとかというわけではないのだが、その騒然とした雰囲気がまだどうにも落ち着かない。証券会社やらなんやらが群居するこんな都会の中心部にそれでも居を構えようとする人間の気が知れないと、来るたびに思わずにはいられなかった。

自宅から二駅――たかだか三、四分の距離しか離れていないにも拘らず、ここまで雰囲気が違うということにもつくづく不思議としか言いようがない。

駅から通い慣れた道を手元の携帯を弄りながら歩く。最新の着信があったのは三分前。丁度電車に乗った頃だろう。常にチェックしておけと言われたにも拘らずそれを取らなかったのは勿論わざとだ。
その上司からの言いつけがあったが故に今まで電源を切る、という最善の選択肢が取れなかったのであるが。

それにしても、もう朝から五分おきに同じ人間から嫌がらせの如く着信がある。否、確実に嫌がらせだろう。正直うんざりだった。

前から来る人を無意識のうちに避けながら、手にした携帯がまた振動し始めたのを見て、その画面を覗き込み、

『音葉律』

その名前を確認した瞬間、何度目か分からない溜息を長々と吐き、笹沼晴樹は遂に電源を落とした。
落として、直ぐまた電源を入れ、着信履歴から折り返し、それが繋がるや否やその電話口に向かって、

「何回も何回もうるせぇ馬鹿女!人の安眠妨害すんな朝飯くらい自分で何とかしろ!断られたからって腹いせに変な画像送ってくんな変態か!俺はテメェのパシリじゃねぇんだよまた今度したら殺すかんな、分かったらあと一分でそっち着くからおとなしくそこで待ってろこの欠食児童、クソ餓鬼、変態、糞女、ばぁか!!」

ぶちっ

まるで思いつく限りの罵詈雑言を全て並べたかのような長いセリフを一息で言い切ると、相手が何か言い出す前に今度こそ完全に電源を落として携帯をスーツのポケットに滑り落とした。これくらいは言う権利がある筈だ。

突然の大声に通りを歩いていた何人かが振り返った気がしたが笹沼は気にせず、まるで何事もなかったかのように否、先よりかはいくらか『清々した』という顔つきで
目の前に見えてきた高層ビルの入口をくぐる。

通常よりややオレンジがかった照明に、下に絨毯が敷き詰められたフロアの正面。

挨拶をしてくるフロントの受付嬢に適当に返して素通りすると、無意識にネクタイを確認しながら、いつものように脇のエレベーターのボタンを押す。

全部で十二階あるこのビルが笹沼の勤務先だった。

上部二階はこの情報会社、という一風変わった会社の社長――緒方学のプレイベートルームになっているらしく、笹沼も入ったことは一度もない。十階から四階までは全てこの会社のオフィスになっており、笹沼が以前勤めていた警察庁より確実に建物の規模は大きかった。業務内容もあまりにも多岐に渡りすぎていて、正直すべて把握しているのは副社長ぐらいだろうというのが専らの噂だ。そこで社長の名前が上がらないというのが、まぁこの会社の特徴といえば一つの特徴であり、また会社の営業に力関係の実態を如実に表してもいる。

やってきたエレベーターは珍しく無人で、そのささやかな幸運に感謝しながら、笹沼は溜息を吐いてそれに乗り込む。今日は本当に朝から溜息ばかりだ。しかし、この後の展開を考えるとそうならずにはいられなかった。

永遠に着かなければいい。

そんな風に思うもエレベーターは止まることなく確実に目的の五階に辿り着く。ちーん、と到着を知らせるベルの音が鳴り響き、その直前に笹沼は深く息を吸うと覚悟したように一瞬、目を閉じた。

此処は魔の階だ、きっといつも以上に。

後悔しないように、頭にその言葉をしっかりと叩きこみ、眼を開けると同時にドアが開き、

「っ、」

笹沼は咄嗟に地面に伏せた。
その瞬間、頭の上――今まで心臓があった位置に一ミリの狂いもなく鋭利なナイフが掠め、背後の壁に突き刺さる。視界の端でそれを捕えながら前転してエレベーターから飛び降り、立ち上がりざまに目の前に飛んできたもう一本を素手で払い落し、その瞬間振り払ったその手が何かセンサーのようなものを――否確実にセンサーだろう、掠めたのを見て、さぁー、と全身の血の気が引いた。

どっ、という音を耳が捉えるより前に再び地面に突っ伏し、手にしていた鞄を頭の上に翳す。と同時に予想に反して大量の水がフロアの絨毯に降り注いだ。勿論、直前で翳した薄い革の鞄など大した意味を為さず、全身はずぶ濡れになる。

「………」

痛いほどの沈黙がしばしその場を支配した。

肩の震えは寒さではなく確実に怒りからくる震えだった。もしかしたら怒りで頭の血管が何本か切れたのではないか。

常日頃のささやかな暴力ならまだ許せる。女の暴力なんて可愛いもんだ。しかしこれはどう考えても、とうに『暴力』なんてものの領域を超えている。
ああしかし以前のように爆薬が仕掛けられているよりはまだ全然ましだとなんとか自分に言い聞かせて立ち上がる。おかげで鞄の中の書類は全滅だが。

「……あの女、絶対に許さん」

フロアの先にある扉を睨みつけながら決意だけを口にし、笹沼は冷静になれと酸素を精一杯肺に送り込む。

まだ此処で熱くなっては駄目だ。多分まだ終わってはいない。

案の定、一歩踏み出した瞬間背後から飛んできた飛来物を目も向けずにかわし――もう何が飛んできたかなど左程興味はなかった――、またもや正面から飛んできたナイフの柄を蹴り飛ばして横から飛来していたそれを相殺し、十字路に差し掛かった瞬間、その右通路から飛来した金属バットに僅かに疑問を感じたが、それをなんなく掴んで後方に一閃。またもや飛んできていた物体を弾き返し、それが野球ボールだったことに気付いて、

「あぁ、それでか…、って、あほかぁあ!」

妙に納得してしまったと同時に完全に遊ばれているのを自覚して、笹沼の中で耐えていた何かが遂にキレた。しかしフロアの中心で頭を抱えて絶叫するその姿は、傍目から見たら人生に絶望した可哀相な人か、ノリ突っ込みしている人のようにしか見えない。

「もう絶対許さん、あんのクソ音葉…!!」

しかし怒り心頭の笹沼がそんなことに気付くはずもなく、バットを持っていた左手を大きく振りかぶると正面に見えていた扉に向かって思い切り投げつけ、それでも扉が開かないのを確認すると、最後の最後で前方から飛んできたナイフを微かに上体を捻る無駄のない動きでかわし――その瞬間、足元のセンサーに軸足がかざっているのが確かに見えたが――、無視してそのまま渾身の蹴りを扉に叩きこんだ。

ごぉんっ、という鈍い音を響かせて扉がへこむ。数瞬遅れて、その扉がまるで呻くように苦しげな音を立ててゆっくりと開いた。

しかし休む暇なく両脇の壁から仕掛けが隠し扉のように口を開き――それを目で確かめるまでもなく分かっていた笹沼は素早く地面を蹴って後方へ飛び退く。扉が開いているのだから前方にかわすという選択肢もあった筈だが、此処でその選択肢を選べば命に関わると、何処か本能的な部分が察知していた。案の定、飛び退いた瞬間、目の前を凄まじい勢いで火炎放射が掠め、その炎の向こう側から間を置かずにクナイが飛んできた。やはりそれは笹沼が室内に入り込んだ時のことを前提として放たれたもので、後方の床に着地した笹沼の足もとに突き刺さる。
自分の勘が正しかったことに安堵すると同時に、流石にこのクナイは避けきれなかっただろうと思うと心底ぞっとした。

「お前な…、毎朝毎朝ほんといい加減にしろよ…」

深々と突き刺さったそれを床から引き抜くと同時に、生来の貧乏癖が働くのか、抉れて少し穴の開いた絨毯を塞ぐように何度か足で撫でつけてから、笹沼はやっと室内に足を踏み入れた。同時に、朝、受話器越しに嫌になるほど聞いたのと同じ、鈴を転がしたかのようなあの楽しげな笑い声が室内に嫌になるほど響く。

「あっははは、何その顔!しっかし見事に全身ずぶ濡れだねぇ〜」

その声で、恐怖で一時的に凍結された怒りに一気に火が灯った。ぶちりと容易く頭の奥で何かがキレる音がする。

血の気が多く、我慢強くないこの性格のせいで幾度となく損をしてきた筈だが、そんな経験に基づく殊勝な考えもこの非常識な暴君の前ではあっけなく無に帰した。今思えば今日は朝から一段とコイツに振り回されてばかりだ。そうと思うと、その怒りは更に倍増する。

「ってめ…
「あ、そうだ、寒いでしょ?お茶入れといたんだけど飲む〜?」
「あ、おうサンキュ…、



…………………、」





差し出されたものを反射的に受け取ってしまってから、がっくりと笹沼はその場に膝をつく。

しかも何故に礼まで口にしてしまっているのか、皆目見当もつかないこの頭が憎い。突拍子もないこの女の行動とその悪意の欠片もない無邪気な笑顔にすっかり毒気を抜かれてしまった。

音葉律。
この情報会社の社員の一人であり、言わずもがな笹沼の天敵である。

長い黒髪を耳の横で一纏めに束ね、黒曜石のような同色の瞳は常に好奇心で無邪気に輝いている。
その幅広い知的財産と特に人体と薬物に関するその知識は確かに尊敬するに値するのかもしれないが、その知識が正しい方向に行使されたのを一度として見たことがない笹沼としては今すぐにその脳味噌ごと破裂して死ねばいいと常日頃思っていて、最近では夜空の星に流れ星を見つけるたびに忘れず手を合わせてお祈りするほどになっている。

例の如く、今日だってその無駄な知識で社内のセキュリティーシステムを改良したのだろう。お蔭様でまたもや朝から死ぬ思いをして出勤する羽目になってしまった。
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