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□日常1
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「首輪ですよ」

男は微笑む。にっこりと。
それが普通だというように。

「まるで、飼われているみたいでしょう?」

黒く煌めく其れを、撫ぜる様に触って、軽く引っ張る。

「こうしていると」

それはそれは、嬉しそうに、

愛しそうに、笑う




【我殺サレルベシ】




白く糊の付いた白いシャツ。清涼な空気。
その鼻梁の整った顔に浮かべられるのはにっこりとした穏やかな笑み。

春原直人

彼は、一般的に言う『完璧な人間』だ。他人から見れば、まさに非の打ちどころのないと、言わざるを得ないような。
仕事も完璧にこなすし、人柄もいい。
私生活に関しては窺う余地もないが、何の噂も立たないところを見ると、仕事同様、他の追従を許さぬのだろうと簡単に予測できる。

社内でも人気が高いし、取引先では引く手数多、
おまけに社長のお気に入りで取締役兼社長秘書と言えば、大体の人間がその肩書だけで恐れをなした。

「お早う御座います」

今日も今日とて彼はあの笑みを崩さない。
誰をも受け入れ拒まないが、決して誰をも踏み込ませることをしない笑み。
まるで侵されるのを拒んでいるかのように、完璧に張り付けられたその笑みを見るたびに、宮代は吐き気がした。

それは、種類は違えど、自分によく似た同種を嫌う自己嫌悪に近い感情。
否、彼――春原の場合、中途半端に他人の侵略を赦している故に尚、性質が悪い。

宮代が彼のその笑みの意味に気付いたのは、おそらくその為だろう。
完璧でない、というなら唯一、彼はそこだけが完璧すぎて不完全だった。

「お早う御座います、宮代さん」

話しかけられて、顔を上げる。フロアから社長室に繋がる扉の前の通路。
そこに備え付けられた豪奢な造りの革張りのソファーに、まるで番犬よろしく腰掛けていれば、自然とそうなるだろう。
しかし、宮代は春原が嫌いではなかった。その笑みは不快を誘うけれど、彼の人と為りは信頼するに十分すぎるほどに足りている。

「貴方が社内にいるなんて珍しいですね」
「あぁ」
「――北が終わって、次は西、ですか」

間髪入れずに返ってきた言葉に思わず唇の端が上がった。

「…そうだろうな」

やはり、というかなんというか、彼は普段の穏やかなその雰囲気からは想像できないほどに鋭く、察しがいい。
社内にいる宮代を見て即座に北での仕事を終えたと察しただけでなく、既に次に言い渡される任の内容まで確信しているあたりは流石だと言える。
しかしそれはただ単に春原が察しがいいということだけでなく、それだけ彼がこの世界で情報を握り尚且つ、見渡せる位置にいるということも示していた。

「せっかく帰ってきたというのに、忙しくなりそうですね…」

他人のことだというのに、春原は宮代を見て心底気の毒そうに苦笑を零す。
貼り付けた笑みの意味は分かるのに、そういう他人を許容する人柄が憎めない。彼のこの苦笑は紛れもなく本心から来るものだった。
だからこそ、宮代はこの春原直人という不器用な人間が憎めなかった。どう考えても不器用で、そして似ていて、だから憎いのに、憎めない。

「…それが俺の仕事だ」

ふ、と苦笑に近い、自然な笑みが自分の口元に浮かんでいることに気付いて、宮代はそれに更に苦笑を零した。

――きっと、好いていると言っても、過言ではないのだろう。

確信してしまってから、ころころと変わりまくる不可解な自分の心持に呆れる。
そんな宮代の一人芝居が珍しかったのか、未だ隣に佇んだままの春原が柔らかく微笑んで、思案するように言った。

「あ、もしかして悩み事ですか?私でよければ相談に乗りますよ、朝――」
「朝食付き、なら却下だ」
「アレ?ばれてました?」
「にやけ過ぎだ。それでは平社員も騙せん」
「あはは、よく見てますねー。で、ご一緒にどうです?」

向けられた柔らかい笑みに、たまにはいいだろうと頷く。
一瞬、その笑みに、例に洩れず嫌悪感を覚えたが、それは直ぐに惨めな自己嫌悪とともに沈んで消えた。



自分にない彼のその弱さは、酷く、眩しく、人間らしくて、そして、
とても愛おしい感情だった気がする。









「その首は如何した?」

だから、其れに気づいた時、酷くぞっとしたのを覚えている。

「あぁ、これですか?」

会社を出て徒歩三分、まだ朝の日が眩しい窓際の席で。
窓の外に見える街頭は出勤するサラリーマンだかОLだかで賑わって。
洒落た雰囲気のカフェ、その店内には淹れたてのコーヒーの匂いが充満して。

「――見たとおり、」

細い、力仕事なんて凡そ縁がなかったとでも言うように白く細い指が、白いシャツの隙間から覗く、黒く革で出来ているのであろう其れを抓まんで。
こんなものは彼に、似合わない酷く似合わない

「首輪ですよ」

彼は、微笑む。あぁ似合わない。
それが普通だとでも、言うように。似合わない酷く似合わない、そんな笑みは、

「まるで、飼われているみたいでしょう?」


そんな束縛は、


「こうしていると――」

愛おしげな笑みは、苦笑にすら変わらずに。

壊れそうに、微笑んで――







黒く煌めく其れを、撫ぜる様に触るその手を、宮代は咄嗟に掴んでいた。
テーブル越し。まるで襟首を掴み上げるような格好に、周りにいた客やら従業員やらが何事かとこちらを見遣ったがそんなことは関係がない。

「似合わんことは止めろ」
「…どういう意味です?」
「そのままの意味だ」

我慢できない、とはこういうことを言うのだろう。
吐き気がする。あの心底煩わしい穏やかな笑みよりも数段、性質が悪い。
春原の瞳がすっと、細まる。それは珍しく剣呑な光を帯びていた。

「離してください」

声は数段冷たい。凍るような温度。いつもの穏やかな雰囲気に似合わない。しかし、それも宮代には関係がなかった。

「外せ」
「貴方に此れをとやかく言われる謂れはありません」
「関係ない。外せと言っている」
「貴方にこそ関係ないでしょう」

いつも他人に無干渉を決め込んでいるくせして。
更に眇められた春原の空色の瞳が声に出さずにそう言っているのが見えた、気がした。
カッと頭に血が昇る。

しかし、間に滑り込んできたおどおどした声に、直ぐに理性が働いた。

「あの、お客さま方…」

カフェの従業員だ。
仕方なく首輪を掴んでいた手を離すと、春原は自然な動作で素早く乱れた襟元を正した。それで隙間から覗いていた不快な首輪は見えなくなる。

「あぁ、すみません。騒がせてしまいましたね。なんでもありませんから、お気になさらないでください」

そして何事か、窺いにきた従業員に向かって苦笑とも、愛想笑いとも付かない笑みを浮かべる。
しかしそうは言われても、何もなかったようには見えないであろう従業員は未だどうすべきかとおろおろしている。
それに安心させるようにもう一度、今度はあの穏やかな笑みだ。それを浮かべて春原は完全に従業員を追い払った。

去り際に、従業員の顔が心なしか赤くなっていたのは気のせいではないだろう。
自分には到底出来ない芸当だと、横目で窺っていると、やっと席に着いた春原が疲れたような声を出した。

「何、ひとりで大人しく座ってるんですか…。貴方のせいでしょう」
「苦手分野だ」
「……お得意先には絶対派遣出来ない種の人ですね」

それに行きたいとも思わんな、とそっけなく返してすっかり冷めてしまったコーヒーを一口啜ると、
やっと春原も落ち着きを取り戻したのか、溜息を零して同じようにコーヒーを啜った。
再び戻った沈黙に、意味もなく街頭に目を向けると、行きかう人々の中に春原の端正な顔つきが浮かんでいて、自然とそれに目が行った。
窓ガラスに映る春原はただじっと、手に持ったカップに視線を注いでいて、こちらからではよく表情が見えない。



「……外したい、とも思ったんですよ」

そんな中ふと洩らされた声は酷く頼りなく、ともすれば窓ガラスの外に息づく雑踏に掻き消されてしまいそうだった。

「なら外せばいい」
「…人の話は最後まで聞きなさい。外せなかったと言ってるんです」

構わず横槍を入れると剣呑な響きと共にようやく春原の声に力が戻る。それに安堵して視線を戻すと、彼の顔には宮代の予想に反して苦笑が浮かんでいた。

「そろそろ戻りましょう、みんな待ってます」
「おい、」
「…貴方には敵いませんよ、まったく」

そうして、何事もなかったかのように席を立つ春原が小さく零したその言葉に、宮代はこの話題の終焉を悟った。
踵を返す瞬間、一瞬垣間見えたその表情には言い様のない哀しみに似た感情が浮かんでいたように見えた。

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