高校の三年間というのは、どうしてこうもあっという間に過ぎていくのだろう。
「この部屋とも、今日で……」
今日、夜久月子は無事に星月学園を卒業した。
星月学園への交通条件の悪さや卒業式後の催し物諸々に加え、明日の朝に部屋の荷物の運搬が入るということで、今宵が月子が寮の自室で過ごす最後の夜となる。
「……もう、何もないんだね」
といっても、自室にはもはや高校三年間を過ごしてきた面影など残っていない。
明日の荷物の運搬に備え、全ての荷物は段ボールに収め、部屋の出入り口付近に積んでおいてある。
部屋の中にあるのは、布団と明日の朝の身支度品くらいのものだ。
生活感のまるでない自室は、もはや自室の体をなしていなかった。
「………もう、何も…」
何もない。
高校三年間、たしかに自分はここにいたはずなのに、その証はもう何も残ってないような気がして。
寂しさに耐えかねて、月子は布団にもぐりこんだ。
本当は、今夜で星月学園から見られる星空ともしばらくお別れなので、寝る前にでも見ておこうと思っていたのに、そんな気にもなれなかった。
ただ寂しくて、布団の中にもぐりこみ体を丸めた。
(………眩しい)
しかしどうしてか、今宵は嫌に月が眩しくて。
布団に潜り込もうとも、月光が月子と部屋とを照らすようで。
その光から逃れるようにぎゅっと、月子は布団の中で目を閉じた。
しかし、まさにその時。
「えーっと……、もしも〜し」
コンコン。
何かを叩くようなそんな音と共に、声。
月子は思わず、布団から顔をひょこりと出した。
「寝ちゃったの?……寒いから入れて欲しいんだけど」
コンコン。
どうやらその音も声も、幻ではなかったらしい。
しかも……、この声は。
「この僕が、まさか窓から女性の部屋に侵入だなんて……。あ、でも鍵かかってるよね」
「…………郁?!」
寂しさのあまり、忘れそうになっていた。
愛しい愛しい、恋人の声。
月子は布団を飛び出すと、窓の鍵を開けてやった。
すると、窓の外にいた水嶋郁がためらいもなく窓を開け放った。
「こんばんは、僕のお姫様。もう夢の中だったの?」
「もうすぐで夢の中だったよ……。郁、いつ来たの?」
「それって心外だなぁ。僕は卒業式の時からいたよ。仮にも君達の学年担当の教育実習生だったから、光栄なことに来賓の一人としてお呼びがかかってね」
「そ、そうだったんだ……。ごめんね、気がつかなくて」
「まぁ仕方がないよね。君ってば、式が始まる前から泣いちゃってるんだもん。気がつかなくて当然だよ……、っと」
開け放った窓、その縁に腰をかけた郁。
その折に何気なしに目に入ったのは、彼女の雑然とした部屋。
そして。
「じゃあ、郁は今の今までどこで何をしてたの?」
「………ん?あぁ、僕?僕は卒業式の後は、陽日先生に捕まってたんだよ。あの人も泣いて泣いて凄かったから、今の今まで相手…、主にお酌してたってわけ」
「そっか……、やっぱり陽日も寂しいんだね…」
「“も”ってことは、やっぱり君“も”、なんだよね」
「えっ?」
「大体、さっきから僕のこととか陽日先生のこととか、他人のことばっか気にして……気づいてないの?」
「何、に?」
「………自分が、泣いてることに」
月明かりの下でもわかる、月子の赤い瞳に、濡れた頬。
郁の教育実習期間中に、恋人ごっこから始まった彼女との関係。
恋人ごっこから本物の恋人同士となり、この部屋もこっそりと何度か訪ねたことはあった。
しかし、郁が訪ねたのはこの部屋であってこの部屋ではない気がした。
ここはもう、彼女の部屋であって彼女の部屋ではない。
こんな部屋で彼女は……、一人、様々な寂しさに耐えかねて泣いていたのだろう。
「君は、どうしてそんな自分を苦しめるようなことばっかりするのかな。僕との恋人ごっこの時も然り、今も然り。……今の君には僕がいるっていうのに、頼ってもらえなんて寂しいな」
「ごめん、なさい………。郁を、寂しがらせちゃって
「ほら、またそうやって自分のことを置き去りにする。君はもっと、自分を大切にするべきだよ」
窓の縁に座る郁はそう言うなり、窓際にいる月子の頭を抱きしめた。
それはまるで、彼女の目に見えるもの全てを塞いで、自分のためだけに泣かせてやるかのように。
「寂しかったんでしょ?卒業することも、この部屋とさよならすることも」
「……うん」
「だから泣いてたんだよね。寂しくて寂しくて、たまらなくて」
「いつの間にか……泣いてた、みたい。郁に言われるまで、本当に気がつかなかったよ」
「君は……、本当にどんな時でも自分を置き去りにしちゃうんだね。まぁそんなところも含めて、僕は君と付き合いたいって思ったんだけどさ」
郁が月子の頭を抱きしめてやったのはそこまでで。
月子を離すや否や、郁は腰かけていた窓の縁から月子がいる部屋の中へと、なんとも身軽にひょいっと入ってきた。
月明かりを背に受けた、自分よりも遥かに長身の郁のことを月子は見上げる。
すると郁が、ふっと笑ってくれた気がした。
それは、恋人ごっこの時には考えられなかったような、甘い笑顔。
「ふふふっ……、月子、かわいい」
「っ!い、いきなり……どうしたの?」
「だって月子、かわいいんだもん。普段の君ももちろんだけど、涙に目を腫らして頬を濡らす君っていうのも、最高にかわいい」
「そっ、そんなこと………。もしかして、酔ってるの?陽日先生にお酌してたって言ってたし」
「残念ながら、それはないよ。今日の僕は、一滴も飲んでません」
「…素面の郁がそんなこと言うなんて………、なんかおかしいよ」
「………そうだね。今の僕、確かにおかしいのかも。だって……」
その言葉とともに、見上げていたはずの郁の背が、見る見るうちに縮んでいった。
まるで、魔法のように。
気がつくと、月子は郁を見下ろしていて。
郁は、月子にむかって跪くような格好をとっていた。
まるで……、王子様のように。
「い、く?えっ……、何、どうしちゃったの?」
「今夜は、君をさらいに来たんだ」
「えっ?」
「僕に……さらわれてくれますか?僕だけのお姫様」
郁は、悪い冗談が好きだ。
付き合う前に至っては、月子が傷つくような冗談を平気で言ってのけたりもしていた。
………ならこれも、悪い冗談?
それとも……。
月子が郁の態度と言葉とを考えているその間に、郁は月子の左手をとって、月明かりに照らされた月子の細い指に何かを嵌めた。
「………っ、郁…?」
「はい、これ。僕にさらわれるためのパスポートだよ。これでもう君は……僕にさらわれるしかなくなったってわけ」
「……指輪…?」
「ただの指輪じゃないこと位……、もちろんわかってるよね?」
指輪がはめられた場所は、薬指。
そう自覚した瞬間、月子の思考が止まる。
それを知ってか知らずか、「酔ってても素面でも、こんなこと言うなんて……今後一生ないと思うけど」と、郁はためらいがちに口を開いた。
「君が……好きだよ。愛してる。でもね、こんな言葉…やっぱり今も昔も好きじゃない。昔はこの言葉自体が胡散臭くて好きじゃなかったけど、今は……こんなありきたりな言葉なんかで、僕の君への思いを伝え切れるなんて思ってないから、好きじゃないんだ」
止まった思考の中で、郁の言葉だけが月子の中に響く。
「君が自分のことを置き去りにして他人のことばっかり考えるっていうなら、それでも構わない。その分僕が君のことを考えて、思い続けてあげるから」
止まった思考の中で、月子の中で何かが変わる。
卒業する寂しさに。
雑然とした自室に涙していた自分は、もういない。
卒業する寂しさを、跳ね除けるような。
雑然とした自室を、以前のように彩ってくれるような。
そんな郁の言葉が、そして証が。
今、ここにはあるだから。
「僕はね…、一生、君と一緒にいたいんだ。放っておけば、自分を置き去りにしちゃうような君と……一生一緒にいたい。他の誰でもない僕が、置き去りにされた君のことをさらってしまいたいんだ。君のことを置き去りにするのが、例え君であろうともね」
悪い冗談でも、なんでもなかった。
これは紛れもない、愛しい恋人からの。
「………プロポーズ、だよね?」
「……そのつもりだけど?はぁ…、まさかこの僕がこんなこと言っちゃう日が来るなんて……。それもこれも、全部君と出会ったせいだ」
「そんな言い方って………、あっ、もしかして照れてるの?郁」
「…っ!そ、そんなことあるわけないだろう?!この僕が照れるだなんて………、あぁ、もう!君は本当に、僕の全てを狂わせる」
そう言うなり、月子にむかって恭しく跪いていた郁はすくりと立ち上がり、月子に背を向けて恥ずかしそうにがしがしと頭をかいた。
そんな郁の背を見ながら、月子は小さく笑う。
そして思うのだ。
「たまには郁を見下ろしてみるのもいいけど、やっぱり私は……郁を見上げてるほうが好きだな」
「……それって、どういう意味?僕が下手に出るなんて、らしくないってこと?」
「う〜ん……、まぁ、そういうことかな?ふふふっ」
「君は本当、ずけずけと思ったことを……。じゃあお言葉に甘えて、もう下手になんか出てあげないからね」
そう郁に言われるなり、月子の体が宙に浮く。
それはもちろん、魔法でもなんでもなくて。
郁が月子を抱き上げ、横抱きに……いわゆるお姫様だっこしたのだ。
「きゃっ!えっ?!も、ちょっと、郁?!」
「言ったよね?もう下手には出てあげないって。だから、君の返事なんか聞かない。今すぐにさらってあげる」
いきなりのことに暴れふためく月子を横抱きにしたまま、郁は身軽そのものに窓から外に出ると、悠々と歩きはじめた。
「ねぇ、待ってよ郁!どこ行くの?!」
「知らない。とりあえず、君をここからさらっちゃうところから始めなきゃ」
「さらうって……、私、明日荷物の運搬が
「そんなの、引っ越し業者の仕事だろ?君の…、ましてや女の子の仕事じゃないよ」
郁がさらりと言ってのけたその言葉に、月子の動きがぴたりと止まる。
そうか。
言われてみれば……、確かに郁が言うことに違いない。
そう気づいてしまうと、あの部屋にいて一人勝手に寂しがっていた自分が、なんだか妙におかしくなって。
「……ふふふっ」
「どうしたのさ、急に笑っちゃって」
「ううん、ただ…郁の言ったことが、本当にその通りだよなって思っちゃって。私、そんなこと気付かなかったから」
「まぁ、気づかれてあの部屋からいなくなられてても困るけどね。君があの部屋にいたからこそ、僕もちゃんとそれっぽくプロポーズできたわけだし」
「うん、そうだよね……。………ね、郁。おろしてくれる?ちゃんとさっきの返事……させてほしいの」
一生、君と一緒にいたい
眩しすぎるほどの月明かりの下を。
手をしっかりとつないだ恋人達が、まるで駆け落ちでもしているかのように走り抜ける。
月子の答えは、ただ、郁の胸の中と月明かりの中とに融けて。
あとがき