短篇

□ハルシオン
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 いつまで経っても耳鳴りは止ま
ない。

『何でお前の作る味噌汁には昆布
が入っているんだ! 普通ワカメ
だろうが!』
『煩いわね、文句あるなら食べる
んじゃないわよ!』
『ゴトンバタンガチャンパリン』

 私は喧嘩が絶えない夫婦が住む
階上の、六畳一間に住んでいる。
毎日毎日喧嘩三昧の夫婦。しかも
その内容は至って下らないこと。
お互い粗探しにかけては天下一品
の夫婦だ。私は喧しいと思うより
感心していた。何で離婚しないん
だろう。余計なお世話だが、そん
な疑問もしばしば浮かんだ。
 私はこの夫婦をあまり見たこと
がない。というか、私が部屋から
出るのは二週間に一度しかないた
め会う機会がないのだ。旦那さん
はサラリーマンで奥さんのほうは
主婦なのだと思う。階下から聞こ
えてくる音などからそれくらいの
予測はついた。ご近所付き合いも
それなりにはしているのだろう。
まったくご苦労なことだ。あまり
外に出ない私には、完全に他人事
だけれど。
 しかし階下の奥さんは毎日三食
私のために食事を作っては、部屋
の前に置いていってくれる。私は
それを部屋に持ち込んで食し、空
になった食器を部屋の前に出す。
頃合を見計らって奥さんはそれを
回収しに来る。一日三回、儀式の
ように繰り返す。まるで豚箱の中
のように。何故そんなことをして
くれるのか、いつからなのか、そ
んなこと覚えていないが、バイト
もせずにいる私だ、貰えるものは
有難く頂いておく。
 今日は二週間に一度の外出の日
だ。今の私にとって行くべき所は
一ヶ所しかない。それが病院の、
心療内科である。私は長いこと不
眠を患っており、その診察のため
に定期的に通っている。といって
も毎回同じ問答を繰り返すだけな
のだが。以前、まるでコントか何
かみたいだと思った瞬間可笑しく
て笑いが止まらなくなり、ついに
発狂したかと勘違いされたほど。
いっそ狂ってしまっても良かった
が、残念ながら私には現状を冷静
に把握し一笑するくらいの能力は
残っていた。まあ、担当医に対し
取り立てて不快を感じたわけでも
ないので、未だに私の担当は彼で
ある。

「久し振り。調子はどう?」

 友達同士にもよくあるこの台詞
は「不眠は治った?」ということ
を示唆している。付き合いの長さ
が功を奏してか裏目に出てか、私
は彼がわざわざオブラートに包ん
だ真意を汲み取ることができるよ
うになっていた。もちろん、その
ことは口にはしない。せっかく彼
がマニュアル通りにやっているの
だ、その脚本を壊しては彼が哀れ
だ。情も湧くくらいの長い付き合
い。馴れている今、担当医が変わ
っては自分が苦労するというのも
本音。

「まあまあだよ。相変わらず、薬
がないと寝られないけど」
「効き目が物足りないことは?」
「それは大丈夫。よく効くから」
「そう、良かった」

 何が「良かった」んだ。少し頭
に来たが、ここで怒りを露にする
ことで薬を換えられたり増やされ
たりしたら大変だ。私はいつも通
りの愛想笑いを浮かべた。

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