短篇

□ちょうどいい距離
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 室内に大きめのノックが響きま
した。扉を開いて後悔しました。
 どうしてアナタがここにいるん
ですか。

「……えーと、紗弥さん」
「何だよ」
「いえ、その……」

 俺の自室に転がり込んで平然と
しているどころか床に腹這いに寝
そべってテレビを夢中で鑑賞中、
あまつ呼びかけに思いっきり怒気
の籠もった男前な返答をしたのは
元カノの牧野紗弥さん。まあ、元
といっても昨日別れたばかりなの
ですけれど。
 いや、だからこそこの状況はお
かしいでしょう。翌日だというの
にまるで何事もなかったかのよう
な振る舞い。これでは俺が命懸け
で別れを切り出した意味が全くな
いじゃないですか。
 ともかく、どういうことなのか
詳しい訳を聞こう。変わりない彼
女の様子に怯えながら俺は勇気を
振り絞って再度彼女に話しかけて
みました。

「あの、紗弥さん。どうしてここ
にいるんですか」
「うっさいなあ。ちょうど今いい
ところなんだから黙ってろハゲ」
「は、はい……」

 うっさいもいいところも黙って
ろも何もここは俺の部屋だしそれ
は俺のテレビでどちらかといえば
彼女のほうが気を使うべき立場の
はずなのに……というか俺はハゲ
じゃないですふさふさ生えてます
この艶々な黒髪が見えないんです
かアナタは。
 なんて言ったら血を見ることに
なるから大人しくしてますけど。
ああ、なんて可哀想な俺。という
より、なんて弱いんだ俺……。
 黙ってろ、と言われたのでそれ
に従い、ドラマの再放送を食い入
るように見ている彼女の横顔を、
俺はじっくりと眺めてみることに
しました。
 彼女は絶世の美女という訳では
ないですがそれなりに整った顔立
ちをしていて、天に向かって伸び
る長い睫毛や唇のラインなど、俺
が愛しいと感じる部分がたくさん
あります。もちろん外見で彼女を
好きになった訳ではなく、彼女の
家庭的な一面──俺は家庭的な子
に弱いのです。出会ったときの彼
女は母性溢れる、細やかな神経の
持ち主でした──に惚れたという
感じですが。
 しかし、俺は彼女のことを蟻の
脳味噌ほども理解していなかった
のです。

「隆史、コーヒー寄越せ」
「……はいはい」

 両思いになってからというもの
彼女は徐々に本性を現していきま
した。これまでの言動からも判る
ように彼女は男勝りで傍若無人な
上にとっても自分勝手な人間だっ
たのです。いや、それだけだった
ならまだマシでした。それに加え
て彼女は暴力的でもありました。
聞くところによれば合気道の有段
者で、今までに遭遇した変質者を
ことごとく返り討ちにしたそうで
す。人並みにスポーツをやってい
た程度の俺がどうこうできるよう
な人間では、最早ありませんでし
た。俺は然るべくして彼女に手綱
を握られてしまったのでした。

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